一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

わずかづつ片づけ



 巨大な夕張メロンが二個、クール宅配便で届いた。例年この時期に、お若い友人の元村君がお気遣いくださる。私にしてみれば、年に一度の贅沢週間を迎える。

 札幌で地道な勤め人だった元村君は、かつて生涯最大の決断をして、藝術学部写真学科へ入学した。三十代の後半だった。学費二年分の貯金があり、あとの二年分をアルバイトで凌ぐという、背水の陣構えだった。包容力ある人柄から、クラスメートの女子たちからは「お父さん」というあだ名で称ばれた。
 関心の翼を拡げて、文芸学科の教室へもぐり込んできてみたら私がいた、という関係である。それまで名もなく顔ぶれも固定していなかった古本屋散歩の学友たちに計って「古本屋研究会」なる学生サークルを結成した、草創期のメンバーの一人だ。
 「さては、日にちを調整したかな?」おりしも今日、元村君を含む古研のいく名かと、暑気払いの一献を傾けることになっていたのだった。

 クール宅配便を受取ったついでに郵便受けを覗くと、レターパックが見えた。差出人住所は千代田区の法律事務所で、弁護士先生からの書類が届いたようだ。中味はペラッとA4 判用紙一枚で、「ご連絡」と題された通告状だった。
 「去る四月五日に貴殿宅の桜の木と○○運転車両との間で発生した交通事故に関する損害賠償問題につき、△△総業より委託を受けましたので本書面をもちましてご挨拶申し上げます」
 以後、いっさいの連絡は、この弁護士先生を通すようにとの通告だった。

 大笑いせざるをえなかった。桜樹と「車両との間で発生しました交通事故」ですと? 「車両」とはまたなんと可愛らしい。10トン超の大型トラックですぜ。「との間で」ということは、そんな大型トラック目がけて桜樹が突進していったとでも?
 会社員だったころの東北地方への出張で、午前六時半ころ、乗り合わせた列車が秋田駅手前の踏切で、乗用車と衝突して、三時間以上も列車中に閉じこめられたことがあった。車内巡回の車掌さんは「なにせ当方は線路の上しか走ってねえんで、あとは向うさんが」と、ぼやきながら通路を通っていった。
 はばかりながら弁護士先生、拙宅の桜樹は、一歩も動いちゃおりやせんぜ。先方が一方的に衝突してきた、の誤りではございませんでしょうか。こんな細かい点にも「非は双方にアリ」との落し処で噺をまとめてしまおうとなさる、先生の予見が無意識のうちに仄見えてしまっておりますねえ。

 ともあれ、これが本件に関して、私が受取った最初の公式文書である。丸三か月以上もかかった。△△総業さんなる運輸会社さんからは、電話一本ハガキ一枚いただいたことはない。当初先方代理人を名乗られた、天下に名の轟く大手保険会社さんからも、初めに二本の電話をいただいたきりで、面談のお申し出もなければ、一枚のお名刺もお預りしてない。当方から電話して、先方ご主張を書面にしてくれと依頼しても、いっさい応じようとされなかった。
 もしやこれは、新手の電話詐欺ではないかと、疑いすら生じぬではなかった。いくら暢気な私でも、さすがに業を煮やして、つい昨日の電話にては「これではケンカになってしまいますねえ」と申しあげた。☆☆県の△△総業さんまで、タイマツでも持って押しかけねばならなくなります、と。
 で、今日になって弁護士先生差出しとされる、ペラッと一枚の「ご連絡」が舞込んだのだった。詐欺ではなかったのかもしれない。ほんのわずかながら、進捗の兆しが見えてきたのかもしれない。いや、それは甘いか。


 夕刻より、元村君が設定・連絡の労をとってくれた、一献の席だ。
 古書肆ご店主と、老舗製薬会社を勤めあげて来年は定年を迎えるという在野の映画史研究者と、元村君。古本屋研究会の立上げ期を知る人たちだ。そこへ、コロナ禍、リモート大学の時代に遭遇して、伝統ある老舗サークルさえもが次つぎに姿を消していった時期に、貧者の一灯みたいな古研を驚異的な情熱で支えてくれた若き女性社会人二人が、駆けつけてくれた。会えば健康不安の情報交換となりがちなオジン組と、新職場の情報交換に余念がないレディース組だ。
 たまたま新旧に二分された今宵の参集者のあいだに、およそ二十学年の顔と出来事とがあった。すでに私にできることなんぞは、いくらもない。いや、ほとんどない。だからせめて自分で片づけられることくらいは、片づけてゆかねばならない。