一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

花終る

 

 拙宅玄関番のネズミモチを剪定した。紅葉したり落葉したりする樹種ではないから、本人の意向は窺い知れないけれども、当方としては、徒長枝が見苦しいというばかりではなく、冬越しを控えて身軽にしてやり、余計な水分・養分の手配を節約してやる善意の鋏である。

 実を食べた鳥の糞の仕業と思われるが、かつて敷地内に五株のネズミモチが着床し、芽吹き、成長した。幼木のうちは雑草同様の扱いで、放置されたり、たまに伐りとったりされた。草ではないからと甘やかされて、草むしりの眼こぼしに与る年月も長かった。敷地内に灌木があるのもよろしいではないかとの、成行きまかせというか、当方の甘さが災いだった。
 増長して、明らかな樹木となってしまった。そうなると、噺は別である。玄関脇のひと株は邪魔にもならぬから放置され、隣接する駐車場との塀ぎわのふた株は眼隠しの役目を果すから、これも放置された。通路の邪魔になるふた株との闘争というか、イタチごっこが始まった。
 切株に毒薬を注入するというような荒療治は避けたかった。が、その手ぬるさ甘さが仇となって、闘争は存外長引いた。地上部よりも地中の根張りの発達は、はるかに頑強だったのである。それでも相手は若木だ。手間ひまかけて、四方に伸びた根をあらかた掘り上げるか切断するかにいたった。

 塀ぎわのふた株は、順調すぎる伸長を見せ始めた。横枝が塀を越えて張りだし、駐車場にご迷惑を及ぼす。季節ごとの剪定では追いつけぬ事態となった。やむなく伐り倒すほかなかったが、当方の身の丈の倍近くにも成長した樹木である。切株からは盛んにひこばえを出すし。一年で繁茂の状態となる。もはや根っこごと掘りあげるなんぞは不可能な状態となっていた。スコップで周囲を掘っておもな根を露わにしては、ノコで切断してゆく。建屋の土台下へもぐり込んで、スコップやノコが使えぬ根もあって、闘争は泥沼状態となっていった。切株からひこばえが吹かなくなるまでに、さてなん年かかったのだったか。
 一部の残存根から、思いも寄らぬ場所に新芽が吹いたことがいく度かあったが、当方もだいぶ自覚的に(闘争的に)なっていたから、幼木のうちに地中部分ごと処理するように心がけた。
 かくして塀ぎわのふた株とは、この一年は停戦状態となっている。このまま戦闘再開されずに、いつの日か枯れ果てて軽くなった切株が、ゴゾッと掘りあげられる結末にでもなれば幸いだ。
 で、着床五株のうち、玄関脇のひと株だけが、現在も徒長枝を伸ばし続けている。

 
 彼岸花は第三から第六まで、すべての球根群にて花時を了えた。無残な姿も、あえて撮影しておく。
 第一と第二球根群は、とうとう花芽を立ちあげなかった。もと最大球根群だったのを二分割に断ち割って、別の場所に植え替えたから、今年は生命温存を優先して、繁殖活動を自粛したのだろう。球根に腐蝕はないようだし、春先までは冬越しの葉を茂らせていたところをみると、死んではいないようだ。

 開高健「闇三部作」の最後『花終る闇』は男女関係の噺で、「闇」シリーズはベトナム戦争での従軍記者経験に基く作品とのみ思いこんだ読者には、鼻白む作品だったことだろう。だが戦争だけが闇だなどとは、開高自身は云っていない。戦争も闇だったが、これだって闇だと云ってみただけのことだ。
 大阪大空襲は惨禍の徹底性において東京大空襲以上だったとも云われる。十四歳の開高少年は、視晴かす丸焼けの大阪を眺めた。鮮烈な記憶は永く残ったろうが、矢弾の飛び交う戦場体験ではなかった。なにを確かめたかったのだろうか。朝日新聞社に志願して、というか直訴して、ベトナム戦争の従軍特派員となったのだ。
 そこで感じた闇も、別のあそこで感じた闇も、ともに人生の闇だと云いたかったのだろうか。男女関係を描きながら、花終ることは「闇」だと捉えた作家があったということだ。

 
 拙宅玄関番の横顔は、だいぶスッキリした。省エネ季節の準備いちおうの完了としておく。

 鳥たちはどれほど実を食い、どれだけ敷地内に糞をたれたもんだろうか。うちで五粒の種子だけが着床し芽吹いた。私にとっては厄介でも迷惑でもあった数字だが、じつは想像もつかぬほど低い確率のなかでの五粒だったことだろう。しかも僥倖のごとき五株のなかで、さらに人間と共生できたのは、たったのひと株のみである。
 移封だの移住だの、移民だの共生だのということは、人間が言葉にするほど容易ではないと、深刻に考え込まざるをえない。