春の花には幕を降してもらう。夏を迎える準備だ。
建屋の東通路だ。春の花ばなの掉尾を飾ってくれたユキノシタだったが、花の姿は眼に見えて張りを喪い、草姿にも勢いがなくなった。あきらかに峠を越えたのである。
最期まで観届けるのが心遣いかとも思うが、老残の身で野草の残身を愛でてどうする、という気も湧く。ひと思いに引導を渡してやるのが、礼儀というものか。
いくら花姿が可憐であっても、先方は人間なんぞよりも強い。むしれば容易に引っこ抜かれるようでいて、次世代へとつなぐ命の緒はちゃんと確保されてあるにちがいない。来年はまたきっと姿を現す。
他のいく種類かの花ばなとともに、春花の先頭を切って勢いを誇ったハルジオンについては、すでにおおかたに引導を渡した。が、私の気紛れな順序選びによってたまたま後回しとなっていた、狭い一画に残党がいる。玄関前のちょいとした箇所だ。目下絶好調のドクダミに取巻かれながら、古潭を伝え続けているといった趣だ。
春花よさらば、という意味で、ともに処理することとしよう。春前半の代表選手の生残りが、最終選手と肩を並べて退場してゆくというわけだ。こちらもいたってしぶとい連中だから、心配するもおこがましい。来年もいち早く姿を見せ、うるさいほどに咲き誇ってくれることだろう。
来春を約束できかねるのは、むしろ人間のほうだ。
五年前を、さらに十年前を想いかえせば、姿を見せなくなった連中もある。いつのころからか、春蘭がいなくなった。用無しとなっても残骸を残してあった昔の盆栽棚を、ある年に取っぱらった。おかげで門扉内はいくらか広びろとしたが、棚の下の半日陰はなくなった。陽当りや風通しが好くなり過ぎるのは、ある種のラン科植物には苛酷過ぎる。春蘭のみならず、エビネ連中も同じラン科だ。
オダマキもいつのころからか、姿を見せなくなった。山野草鉢植えとなっていた園芸品種の種子がこぼれたらしく、地に定着して野生化したようだった。が、やはり地育ち専門の連中とは競争力において較ぶべくもなかったと見え、いく年か草むしりするうちに消えていった。
絶滅認定種が思いもよらぬ処で再発見されるように、物陰や片隅でふいに視かけることでもあるまいかと、それとなく注意してはきたが、春蘭もエビネもオダマキも、拙宅敷地内からは完全に姿を消したようだ。
今朝はごく軽い作業に留めておく。これから外出だ。若者たちに連れられて古書店を散策して歩く。絶滅一歩手前の老残花のごとき散歩である。