
春の草花連中のおおかたが、盛りを過ぎた観がある。待っていたかのように、真打登場だ。ユキノシタである。
園芸関連の雑誌編集やら広告コピーのひねり出しやらに従事していた時代に、ダイモンジソウ(大文字草)を知った。花の形状が特徴的で、京都五山の大文字送り火をも連想させ、気に入っていた。
四十年を経てどこから飛来したものか、似た形状の花が拙宅敷地に姿を観せたときには、感を深くし、少し歓んだ。ユキノシタだった。図鑑を観れば、ダイモンジソウはユキノシタ科ユキノシタ属とある。似ていて当然だ。
春先からこれまでの草むしりでも、草叢を軍手で見さかいなく引っこ抜くようにしながらも、ユキノシタの幼葉だけは避けて残してきた。それらが今、開花途上となったわけだ。
同じ編集部には千葉大学の園芸学科卒という、専門的に園芸学を修めた同僚もあって、教えてくれた。
「まだ人間に認知されず命名されてもいない植物は山とあろう。だが野生種だろうが栽培種だろうが、お前ごときが眼にできるていどの植物は、すべて命名されて分類も済んでいる。「名もなき雑草」なんぞと口走るのは文学屋の感傷に過ぎない。お前が無知で、名を知らぬだけのことだ」
いかにもさようだろう。一言もなかった。またこうも教わった。
「園芸学にあっても農学にあっても、「雑草」の定義も概念もはっきりしている。例えば小豆畑に紛れ込んで数本の稲が生えてくれば、その稲は雑草だ」
これまたさもありなむ、だった。
食糧であれ観賞用であれ、さらには眼の仇にされがちな生命力過剰の連中であれ、人間一人が生涯に接しうる植物の種類なんぞというものは、まことにわずかなものだと思わずにはいられない。

建屋東がわの玄関近くに、五~六株ていどの小群落がある。拙宅敷地にあっては第二第三の群落だ。いずれもまだ草むしりを済ませてない場所のため、他の草類をかき分けて上空へと花芽を伸び出させる恰好で開花した。
周囲の草ぐさから開花を邪魔されているようには見えない。幼葉のうちは地表ちかくにうずくまって他種の根元に身を隠し、ここへ来て急速に花専用の茎を高く伸び上らせてきた。用途に応じてまったく形状の異なる手と足とを備え持つかのようだ。賢いもんである。

いかなる風向きでかような処へまで飛び移れたろうと首を傾げたくなるような、群落から離れた物かげやら隙間やら、塀に近い隙間のごとき場所に、勇躍単騎にて咲く豪傑もある。はぐれ者だろうか、それとも地域拡張のための先兵だろうか。
春の草むしりが済んで、周囲に他種の姿がない場所に単騎株がある。よかれと思って単騎を残し周囲をむしったのだったが、ともすると他種の根が地を支え、他種の葉が風をよけてくれていたという事情があったろうか。周囲を小ざっぱりさせてしまうことは、ユキノシタにとってはありがた迷惑だったろうか。判らない。知識とわきまえが足りない。ユキノシタの声が聞えてこない。
建屋東がわのそうとう奥まったあたりの、私とガスメーター検針員さんくらいしか通らぬあたりの塀ぎわに、全長一メートル半にわたる最大群落がある。この場所には毎年ユキノシタが開花する。
今年の花はこころもち小ぶりで、貧相に見える。