一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

二年目〈口上〉


―― 口 上 ――
 
 東西とぉうざぁ~い !

 かずかずブログ多いなか、ご縁をもちましてお眼汚しをかたじけのういたしましたる、あなたさまにひとこと、おん礼ご挨拶申しあぐべく、貴重なるお時間を少々頂戴いたしまする。

 当「一朴洞日記」またの名を「老残妄言の記」、産声揚げましてより昨日をもちまして連続投稿三百と六十五日。満一年を閲したる次第と、あいなりましてございまする。
 なにごとによらず石の上にも三年、パソコンの前には一年と申します。おかげさまにて、一日とて欠けることなく、連日投稿させていたゞけましたのは、これひとえに、お眼の片隅にお留めおきくださいましたる、あなたさまのおかげと、まことにまことに感謝に耐えがたく、区切りよきこの日に、あらためておん礼申しあげる次第にございまする。

 本日より、日記は第二年目に入りまする。かと申しましまして、とりたてゝの新機軸と申すがごとき大声でのお報せは、あえて申しあげません。お見掛けどおりの半ボケ老人。これまで同様に老いの繰りごとだらだらと、グダグダと書き連ね、全ボケとなり果てますまでの日々をノタノタと、一人歩いてまいる所存にございまする。

 方針には寸毫の変化もございません。天下国家を語らず。読者さまのお役に立とうなどという欲深きことは断じて企てず、たゞ身の回りの些事を眺め、残滓として身に残りましたる記憶と戯れまして、日々を送ってまいる所存にございまする。

 たゞしわたくし一個にとりましては、二年目に入りまして、小さな愉しみがひとつ増えましてございます。すなわち、昨年の今日、自分はなにを考えて過しておったかと、確かめる面白さが加わりまする。
 あれからもう一年が経ったかと光陰の峻厳苛烈を想うこともございましょうし、わずか一年しか経っておらぬかと、わが身の衰滅急なるに驚愕抑えがたきこともございましょう。快も不快も含めまして、すべてこれ老残の落日観察。面白おかしう狂い舞うて見せようぞと、口先だけは意気軒昂にございまする。

 とは申せこれからは、過ぐる一年のごとくに連日投稿できますものやら、できませぬものやら、もとより自信とてはございません。過去に二度も、サイレン鳴らす救急車の車中の者となりたる経験もあり、また不規則生活にて一日の区切れ目をついおろそかにしがちな気性でもございまする。
 ましてや疫病騒ぎによる戒めが解けたりいたしましょうものなら、宿痾のごとき好からぬ蟲が突如騒ぎ出して、あれを観たいこれに触れたいと、身分わきまえぬ酔狂な旅に発ってしまうことなども、ないとは申せません。

 ご心配くださる知友への生存確認連絡、というのが、日記立上げの動機のひとつでございましたが、向後は洒落冗談でなく、ほんとうにその目的で活用せねばならぬ事態も出来いたしかねません。
 ともあれしかし、今から気に病みましても詮方なきこと。まずは、千日回峰行の達成に憧れ、ブログ阿闍梨の称号をいたゞく遠き未来に向けまして、足元の二年目第一歩を歩み出す所存にございまする。

 ご縁をもちましてお眼をおかけくださいましたる、あなたさまにおかれましては、今後ともどうか、どうかよろしくご贔屓くださりまするよう、隅から隅まで、おん願いあげ、たぁ~てまつりまするぅ。

ありあわせ

 まあまあの、佳き日だった。こういう夜は、古いジャズCDと「ラジオ深夜便」とを適宜切換えつゝ聴きながら、台所でありあわせの立飲みにかぎる。
 
 一昨日は、月例のユーチューブの収録を済ませた。小説に描き出された老人像について、思い出すまゝを、飛びとびに喋った。喋るためになにか調べたり、改めて読み直したりはいっさいしない。いつものことだ。きっと出来栄えは、イイカゲンなものなのだろう。間違い・勘違いも少なくあるまい。
 ディレクター氏が不出来箇所を刈込んでくださるから、どの程度の音声作品に仕上るものか。いずれにせよ、彼の腕前による彼の作品であって、私は素材の声を提供しただけだ。

 つい先だって佐藤洋二郎さんから、ご新著『Y字橋』をご恵贈いたゞいて、一読に及んだところ、たいそう面白く、いさゝかのことが連想されたり、思い出されたりしたので、喋ってみたのだった。
 中山義秀横光利一のこと。永井荷風谷崎潤一郎宇野浩二のこと。芥川龍之介広津和郎のこと。ほとんど消えかけた記憶群のなかに、わずかに消え残っていることどもを、ありあわせのモザイク・タイルを組合せるかのごとくに、喋り散らかしたわけだ。

 と、どういう巡りあわせか、火元の佐藤洋二郎さんからの電話があった。珍しいことだ。長らくお会いする機会もないから、直接会話するのはいつ以来か、思い出せもしない。
 SNS を通して、彼の日常お暮しぶりと、ご心境の一端は承知している。作品からも窺われる。
 過去に大病のご病歴もあり、いくつもの危険信号をお抱えで、医者とご相談のうえ、散歩を仕事のようにされている。その模様が SNS に挙げられる。散歩の立寄りさきや眼の着けどころに、佐藤さんらしさが如実だ。
 彼のほうでも、この老残妄言日記を、時おり覗いてくださっているらしい。

 ウェブ上の情報から半ば知合っている互いの近況や、健康情報を改めて肉声で語りあう。双方とも寝ついてるわけではないから、示し合せて会おうとすれば、会えぬわけではなかろうけれども、どちらも、そういうことをしがちな人間ではない。
 強いて会おうとすれば、いつでも会えると思い想いするうちに、ふいに報せが入って、というようなことは、老人同士の友情の場合には、よくある。

 佐藤さんのご健康を切に願う。かといって、私にはなんのお役に立つ力もない。お声も、喋りかたも、お元気そうだった。なんとはなしに、気を好くする。
 

 お若い友人たちの助けを借りて、老残妄言日記を立上げた第一回投稿が、昨年の五月三日だった。Hatena さま示すところによると、これが連続投稿日365日目だそうだ。426本目の投稿。閲覧数 27,200 ほどだという。これが多いのか少ないのか、人さまのブログを眺め歩いたことがないので、さっぱり見当がつかない。知ろうとも思わない。

 分野や話題を絞り込むでもなく、主題を設定するでもなく、ありあわせの想いを述べて、述べたからにはもう、それっきり忘れてしまってよろしいことと、思い做してきた。こんなものをお読みくださっても、面白いはずがなかろう。
 が、これからも変るまい。ありあわせのネタを、ありあわせの言葉にした、ありあわせの日録である。

ダンシャリリ

 久びさに行動規制のない黄金週間。観光地にはよみがえりのきざしが見えるのだろうか。交通機関の乗車率は高まっているのだろうか。盛り場に人出は戻っているのだろうか。
 かと申して、先陣切って飛出すがらでもない。

 雨もよいの肌寒さ。三月中旬並みとのこと。草むしりにも適さない。
 それに昨日は Youtube 収録日。例月のごとく、ディレクター氏を終電まぎわまでお引留めしてしまった。余談・雑談満載。愉しくはあるが、ご迷惑でもある。仕上り一時間強(15~20分を四本録り)を収録するのに、休憩を挟んでなんと七時間。
 今日あたりは、明るいうちからちびりちびり始めて、日ごろの生活不規則を修正すべくガッチリ寝てしまうのが、知恵というものか。

 と思いかけて、身辺・室内を視回せば、あい変らずの乱雑ゴミ屋敷状態。いや「ますますの」と訂正。こんな機会に、整理整頓をいさゝかなりとも。
 しかし小さなものが動いても、巨きなものが動かない。もし巨きなものが動く日が来たら、いったん収めたちいさなものも、また動かねばならない。手順をいかにするか。

 階上のスペースを広げたい。洗濯場や物干しを空けたい。騙しだまし使ってきた老朽洗濯機が、先年ついに寿命尽きた。それを出したい。が、拙宅の階段は、巨きなものが通れる風景とは、なっておらない。まず階段を、物が通せる姿にしなくては。
 これが至難の技で、小型の書棚もあれば、当面使わぬ什器も収まっている。米びつや麺類などの食糧収納箱も、台所から溢れ出してこゝへ一時避難してきている。

 その難所に到達するまでの手前階段にも、問題がある。さっさと書庫へと戻さねばならなかった書籍類・資料類などが、ついつい積上げられてある。近ぢかふたたび使うから、ほんのしばらく眼に着くところに置いておこうと、いずれかのときに判断されたものたちだ。
 もし明日も使うことがあれば、ふたたび書庫から出そうと、労をいとわず返却しておけば、こうはならなかった。つまりは一人暮しのワガママ、ものぐさの所産である。
 一人暮しゆえの技もあって、それでもなんとか暮せてしまうから、なおいけない。

 拙宅階段を平気で昇り降りするのは、初心者には少々骨が折れるかもしれない。ちょいとしたコツが要る。
 初めにこゝへ左足を置く。で、右足をそこへ出す。だからそっちへ左足が出せる。
 逆足だと、歩けない。もしくは積んである山を崩す。すると山の順序や関連性を失う。積みあがったさいの必然性の脈絡が断ち切られ、再度探し出そうとしたときに、たいそうな手間となる。

 そうだ。今年の黄金週間のテーマは、「階段を広くしよう!」にしよう!
 じつはそれだけではなく、寿命洗濯機を動かせぬ事情はまだあるのだが、少なくとも百里の道の第一歩として。
 世の賢きかたがたは、着々断捨離なさると聴き及ぶが、わがほうは日々ますます断捨離から遠ざかる。これを断捨離々と云う。

境界

 お向うの、粉川さんご門柱脇のクローバ。開花直前のツボミ状態だし、花が売りの草でもないから、気づきにくい。生きてるうちに、しかと眺めておこうという気にさせられる。

 学生諸君を誘って、駒場日本民藝館の展示を観に行ったことがあった。近現代や西洋を扱う美術館なら若者の眼にも止りやすかろうけれども、こういうものには気づきにくいかもしれない。一度案内いたしてさえおけば、眼に止りやすくなろう。興味が湧けば、自分独りで出掛けることにもなろう。
 古書店を巡って散歩する。骨董市・ガラクタ市を冷かして歩く。すべて同様で、情報だの画像検索だのではなく、足を使って肉眼で観て歩く愉しさを、若者に体得して欲しくて、お誘いするわけだ。

 日本民藝館を出て、脇道へ入り、駒場公園で休んだ。東京大学駒場キャンパス同様、旧前田家の別邸跡地だが、今では東京都の管理下にあって、映画でしか観ないような堂々たる洋館と庭園とが残っている。敷地内に、日本近代文学館も建っている。日本近代文学専門の図書館で、名著復刻の出版活動もしている。
 さて中央の洋館だが、かつては「近代文学博物館」と称する展示館だった。樋口一葉の肉筆原稿なども、私はそこで観た。しかし維持管理の面では金食い虫だったのだろう。ある時期に文学展示はされなくなり、今では明治の貴族家洋館の風情を窺うだけの見学施設となっている。
 東京都の財政見直しにより、文学博物館の廃止を決定したのが、石原慎太郎都知事だったことから、当時はいくばくかの意見が飛び交ったものだ。先輩文士たちを敬わぬ石原のバチ当り野郎が、というわけだったのだろう。むろん石原さんは、そんなかたではなかったろうけれども。

 若者たちが洋館内を見学しているあいだ、かつていく度も内部を拝見していた私は、庭園に休んでいた。それぞれのペースで見学し了えた若者たちが、順不同に庭へ出てくる。私は庭の隅の、芝生の切れたあたりに群棲するクローバを眺めて、しゃがみこんでいた。
 「先生、なにしてんの?」
 「うん、四つ葉があるかと思ってサ」
 「キェーッ、らしくねえ~」
 大学新聞主催の懸賞小説ほか、学内で獲りうるあらゆる賞と総なめにしている、威勢の好い女子だ。
 「まったくだ。でもな、俺やこんなメンツと散歩してるから、そう云って平気でいられる。彼氏と二人で散歩してたら、お前だって探すんじゃねえかな」
 彼女は、しばし黙った。
 「たしかに……」と、やおら小声で呟いた。

 「みんな私を褒めてくれるのに、多岐先生だけが、褒めてくれない」
 彼女は日ごろから、口を尖らせていた。
 「お前は反応が速い。手も速い。でもな、お前の眼からは気の利かぬドン臭い奴と見えるのが、じっくりコツコツ積上げてきてな、ゴール前一気のサシ脚で抜いてくることもあるぞ。油断すんじゃねえ」
 私はさように云い続けていた。
 「新人賞くらい、獲らいでか。先生を、芥川賞の受賞パーティーに呼んであげるから。絶対に来てよね」
 まぁ、その意気軒昂たるはよろしいと、思いはしたけれども。
 本日たゞ今にいたるまで、まだ招待状は届いていない。

 粉川さんのお隣、つまり拙宅筋向うにあたる、音澤さん駐車スペース脇のクローバ。往ったり来たりしつゝどう眺め返しても、粉川さんご門柱脇の一団と兄弟だ。道路沿いに風が流れて、同じ経緯でこの地に着地したとしか、考えられない。
 ところがである。道を挟んだ拙宅のクローバとは、明かに葉の形状にちがいがある。それに拙宅の連中は、すでに花を終らせている。

 風の向きと道路の方向。こんな狭い世界にも、種族と文化の相違がある。幅わずか五メートルの一方通行路は、彼らにとっては容易に越境できる境界ではないということなのだろうか。

ヒント

勁草書房版、講談社文庫版。

 品切れ、もしくは絶版が何年か続くと、どこかの出版社から新版が出る。どこ社版で、もしくはなに文庫で読んだかで、読者の年齢または本書に出逢った年代が知れるという、名著中の名著。

 中央公論社版(1959年刊)でお読みになられた先輩がた、勁草書房版(1966年刊)で読んだ我われ年代、そして講談社文庫時代、岩波現代文庫時代、これからの若者にはKindle電子書籍という手もある。
 久野収鶴見俊輔藤田省三による鼎談の形式で、昭和後半(戦後)思想の重要な柱を複眼的に検討し合った。思想の科学研究会の方針に則って、公平かつ実証的な検討をが重ねられた。特定の政治立場からの視かたを排し、理念お題目ではない現場での思想営為が検証されたのである。
 三著者による鼎談といっても、各章分担して、あらかじめ徹底的に深読みした報告者による問題点の洗い出しと、二名によるコメントや付帯提案という、研究会方式が採られた。書籍のなかでこの形式が採られたことも、新鮮だった。

 第一章が「知識人の発想地点――『近代文学』グループ」で、漠然と「戦後批評」と称ばれていた一群の視点と立場とを、初めて広い座標のなかで客観的に跡付けようとした論考だった。それまで別個に平野謙本多秋五埴谷雄高山室静荒正人佐々木基一を読んで、各人の異同をあれこれ考えてきた学生たちのまえに、基本となる着眼点を提供したのである。
 併せて、次の世代からの「戦後批評」への批判もしくは注文、典型例を掲げれば吉本隆明橋川文三の視点がいかに必然であるかをも、明かに理解できるようになった。学生たちには、まだそれらが十分に理解できる時代ではなかったのである。桶谷秀昭磯田光一はまだ登場したばかりで、その批評的(=思想的)核心など、未熟学生には洞察しようもなかった時代だった。

 ところで、ほんの一部でだろうが、こんな旗が、はためいているそうだ。日本だけではない。いやむしろ、日本は出遅れているくらいで、欧米各国が先んじているらしい。
 それぞれの国に在住するロシア人の若者たちが、考案し、伝播させている旗だという。わが国でも、停戦・ロシア軍の撤退を訴える在日ロシア人の若者たちが、新宿駅前や品川駅前に立つさいに、はためいている。

 ロシアにあって反戦平和のアピール行動を起せば、即時拘束されてしまう。せめて自由にものが云える国に住むロシア人だけでもという、やむにやまれぬ行動だろう。同時に、短絡感情に駆られた一部の日本人が、すべてのロシア人を忌避するような事態を避けるべく、現在の状況はロシア国民の総意ではないと、日本人に向けてアピールする狙いも含まれていよう。

 旗デザインの意図は、現在のロシア国旗から、血や暴力や過剰なナショナリズムを想起させる赤を拭い去り、濃い青を明るい水色に替えたものだそうだ。単純と申せばあまりに単純ではあるが、メッセージは明快なほうがよろしいではないか。

 インタビューに応えた在日ロシア人の若者は云う。自分らは少なくとも今後百年、ロシア人であることを恥じて生きてゆかねばならなくなった、と。
 まさか、そんなことにはなるまい。各国の若者・次世代・これから産れる未来人たちは、それほどレッテル貼り主義者ではあるまい。とは思うものの、さように云いたくなる現在の若者の気持には、想い及ばぬではない。

 『戦後日本の思想』で雑誌『近代文学』グループを総括して、いくつかのポイントを箇条書き的に整理しているが、なかにこんな一項がある。
 軍国主義国家~敗戦国家の経験を、人間の本性・人間性の正体という深みにまで掘り下げて検証しようとしたこのグループの論説は、やがて平和・安定の世が到来するとともに、有効性を失うだろう。しかしその深みに留まるかぎり、将来もしまた人類が同様な危機に見舞われる時代がやってくることでもあれば、ふたたび息を吹きかえして有効性を発揮することだろう。

 歴史に同一の局面などありえない。が、相似的局面は生じうる。ヒントは汲み出しうる。山室静を、埴谷雄高を、本多秋五を、生きてるあいだにもう一度、読み返さねばならぬかもしれない。

ひと坪

ひと坪ビフォー。

 また寝そびれて、朝が来た。

 夜通し煙草とカルピスだけでは、躰に悪かろう。気づけば空腹でもある。いくらなんでも炭水化物はやめにして、野菜の煮物と目玉焼と6Pチーズくらい腹に入れて、なんとか寝ちまおう。
 ひと頃であれば、ちょうど好いから腹ごなしと睡眠導入に六キロコース一本、などと歩きに出たもんだったが、疫病引籠りいらい、とんと意気地がなくなった。

 ふいに思いたって、ひと坪だけ草むしりした。といっても今の時期は、ひたすらドクダミを引っこ抜くだけが、おもなる作業だ。
 およそ十五分。やり過ぎると、あとで躰にしわ寄せが来る。丹念に抜いたところで、網の目状に張り巡らされた地下部分まで退治できるはずもない。ごく粗雑に、生育が目立つものを引き抜き、難を逃れた小葉は目こぼしのまゝとしておく。
 どうせ次世代が、すぐに芽を吹いてくる。イタチごっこだ。

 ブロック塀に沿って、細い通路を裏手へ回る。そこには階上へと水を揚げる水道モーターがあって、その脇にはガスメーターがある。検針に見えてくださる女性職員さんが歩けなかったり草木にかぶれたりしては大ごとだ。
 セイタカアワダチソウヤブガラシを引っこ抜く。熊笹を刈り、こゝでも伐り倒したネズミモチの切株から生えてきたひこばえ状の小枝を、剪定鋏で伐る。
 計三十分強。調子に乗って頑張り過ぎるのは禁物だ。

 五日ほど前に、東京都道路整備保全公社の職員さんが二人して来訪された。今後連絡をとらせて欲しいからと、電話番号とメールアドレスをお訊ねだから、正直に伝えた。むやみに警戒したり毛嫌いしたところで、始まらない。
 翌日さっそくメールが来た。アドレスを確認したいから、空メールでも応答くれとおっしゃる。空メールを返信した。と、それから二日後に再メール。お打合せは五月の何々々日(候補四日)の何時から何時、さてご都合どうかとのお誘いだ。

 当方からの返信。――お上の事業方針は承知している(説明会にも毎度足を運んだ)。反対・抵抗はしない。だがそちらさまにとってはビジネス問題でも、私にとっては生命の問題である。しかも独居老人。体調と気分とを睨み合せながら、ボチボチ進行してゆく所存につき、お約束はいっさいいたしかねる。

 本日またも来信。――私の意向は承知。今後も情報伝達しながら丁寧に進行のつもり。質問あったら随時なんでも寄せられたし、だってさ。

 先般ご来訪時には、まだ親方の作業は開始されていなかったが、すでに梯子が立掛けてあり、これから桜の手入れに入るヨと、お伝えしたのに。つまり鳥が発つようにバタバタと動くつもりはないと、お伝えしたつもりだったのに。

ひと坪アフター。

 で、今日も今日とて、蟻の歩みのごとくなれども、ひと坪ずつ草むしり。このペースでは、秋になるわい。下草の顔ぶれは、おゝむね入替っているかもしれない。

くぐつ

真鍋呉夫(1920-2012)、長らくご逗留中。

 心に残る文士であられた。

 駆出し編集者だったおり、真鍋呉夫さんの原稿を、いたゞきそこねたことがある。
 句集『雪女』で藤村記念歴程賞と読売文学賞とを受賞されて、お見事な大復活をとげられるよりも前のことだ。駆出しにとっては、自分の読書範囲の外にいらっしゃる怖いような作家で、いわば幻の作家のおひとりだった。
 仲立ちあってお預りした原稿は、それまでの作品集に収録されなかった初期短篇集で、いずれもまだ九州にお住いだった時代、奥さまと新婚ご夫婦であられた時代に材を採った、瑞々しい小説だった。
 それまでは、中島敦の後裔かと思わせるような、古典に材を採った、調子の強い文体をもって志高い作風を示されていたから、ちょいと意外だった。面白く思い、社内で刊行順序が回ってくるのを、愉しみにしていた。

 私が籍を置いていたのは新興の零細出版社で、画に描いたようなワンマン社長の放漫経営。金には異様な執着があっても、文学への夢や愉しみは、これっぽっちも抱いてない経営者だった。新米社会人の眼からも、危なっかしく見えていた。
 案の定資金繰りは苦しく、営業部や編集部を素通りして社長室へ直行する来客は、金融関係者か不動産関係者ばかりだった。
 だれからとなく、この会社はもう駄目だとの噂が聞えはじめた。金融関係といっても、それまでの信用金庫の課長さんだけでなく、債権者代表と称する古手の総会屋みたいな謎の紳士や、怪しげな手形を何枚も持込んで交渉にやってくる裏社会の人員らしい顔ぶれが、小半日も社長室に腰掛けているようになった。

 この会社はもう駄目と明かでも、社員たるもの外部に実状を漏らすことは許されない。あっという間に噂が広まって、身動きとれなくなってしまうからだ。
 しかし問題は倒れかただ。道義に則った清算ができればよろしいが、金融機関のみならず怪しげな債権者たちが押しかけてきて、少しでも換金できそうなものなら根こそぎむしり取ってゆくというような、弱肉強食ハゲタカ状態になったらどうするか。
 事務機器や什器備品など痛くも痒くもないが、新刊在庫や仕掛りのゲラ類や、手元にお預り中の生原稿にまで疵がつく事態となっては堪らない。

 私の企画で刊行されたばかりの新刊小説が一点あった。むろん印税は未払いである。営業部長と図って、深夜出勤した。倉庫に忍び込んで荷造りした。印税相当の現物を、著者へ発送したのである。
 その足で翌朝新幹線に乗り、広島へ飛んだ。著者にココダケノ話として事情を伝え、どうか未払い印税分のご著書を現物でお納めいたゞきたいと、伏してお願いした。
 東京へ戻り、次はさて、真鍋呉夫先生の生原稿である。石神井公園のお住いにお訪ねして、ハズカシナガラとお詫び申しあげ、とにかく玉稿を疵にしてはならぬからと、お返しした。もし私がふたたび文芸出版社に勤務することができたら、もう一度くださいと、惨めなお願いをした。

 それが真鍋呉夫さんとの、まだ二度目の対面だった。穏やかな笑みを絶やさぬ奥さまと、女優さんのように正しく綺麗なお辞儀をなさるお嬢さまとで、静かにお暮しのところへ、なんともがさつで埃っぽい話題を持込んだものである。九州男児らしい剛毅な面持ちと、はっきりおっしゃりきる言葉をお持ちのかたで、怖い面とシャイでお茶目な面とが混在するかただった。

 私がとった行動は、人間として男一匹として、社会人として会社員として、背任行為だったのか、それとも許される防衛だったのか、今もって判断がつかない。
 その後、倒産にまつわるゴタゴタがあって、凶状持ちのごとき身となった私に出版社勤務の道はなく、通販会社で広告や機関誌のコピーライターとして過した。ほとぼりが冷めたころ、また零細出版社勤めとなったが、分野違いで、二度と真鍋先生から原稿をいたゞく身分とはならなかった。

 真鍋呉夫さんは、俳号を天魚と名乗られ、俳人として、また歌仙(連句)の宗匠として、まばゆいばかりに復活なされた。読売文学賞受賞の後に、お祝いに参上したが、内心は恥かしかった。惨めな自分であると思った。

 天魚先生の落款は、剛毅で丈高い側面ではなく、ユーモアを愛するお茶目な側面が出たもので、ご自身でもお気に召しておられたらしく、これを常用しておられた。