一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

蛇じゃ



 信州は墨坂ってところに、中村ナニガシって医者がおった。気まぐれの面白半分でね、今まさにつるんでるさなかっていう二匹の蛇をね、叩き殺しちまった。

 その晩のこった。その医者のあそこがね、つまりそのゥなにだ、大事なイチモツがよ、ズキズキ痛み出しちまった。どうしちまったんだろうと思ってるうちに、見るみる腐れてきてね、しまいにポロンと落ちちまってさ、そのまんま呆気なく死んじまった。

 その子が跡を継いだ。三哲と云われたくらいだから、賢い男だったんだろうがねぇ。しかも並なみでない太くたくましい松茸のようなもんを、もった男だったそうだ。
 前途には期待と妄想一杯。妻女を迎えてね、いざ夫婦の始まりってんで、意気込んだんだがねぇ。そん時になると、ふだんは棒のようだったもんが、とたんにメソメソと縮こまっちまって、お灯明の芯さながらにふんわりスベスベしちまうんだそうだ。

 この期に及んで、まさかからっきし用立たないってのももどかしく、だいいち恥かしくってならねえや。やがていまいましく思えてくる。そうだ、相性が悪かったんだ。相手が替れば道は開けるにちがいないと、思いついてね。金に糸目もつけずにとっ替えひっ替え、かれこれ百人ものお妾さんを抱えたんだと。でもみんなみぃ~んな、前のとおりだったそうだ。
 苛ついていらついて、一時は気が狂ったようだったらしいが、さてどう治まりを着けたたもんだかねえ。さようさ、今でも独身でいるよ。


 この手の因果噺ってのは、『宇治拾遺物語』そのほか、昔むかしの説話本にあるだけの噺と思って、たいして気にも留めずにいたんだが、こんな天下泰平の世に眼の前で実際に見せられちまうとはねぇ、思いも寄らなかったぜ。
 世間の人たちも、疑う余地なくあの蛇の執念がね、その家の血筋を絶やそうとしてるにちがいないと、もっぱら噂してたっけ。

 つまりはね、生きとし活けるもの、ノミ・シラミの一匹だってさ、命惜しいは人と同じだってことだぁね。ましてや番いの二匹がつるんでるところを、あろうことか叩き殺したってんだから、やり口の罪深さもひととおりじゃねえってことだよ。
 よしんば先がねえっってことになっても、ちいっとでも生きていてえのが、生き物ってもんだからねえ。

   魚どもや桶ともしらで門涼み   一茶

      本歌
   水ふねにうきてひれふる生け鯉の
     命まつ間もせはしなの世や  光俊卿

 光俊卿かい? 順徳天皇の側近だった鎌倉期の貴族さんさ。歌は藤原定家卿のお弟子だったらしいがね。

一朴抄訳⑦

蛙仙人


 
 ここいらの子どもたちに、こんな遊びがあってね。

 蛙を生きたまんま、土に埋めちまってね、声をそろえて唄うのさ。
 「ひきどのめでたくお亡くなりぃ、お亡くなりぃ。おんばく持ってとぶらいにぃ、とぶらいにぃ」
 ってね、口ぐちに囃したてたかと思うと、埋めた上へ芣苡の葉を山盛りに盛り被せてね、ワァ~ッてなもんで、散りぢりに帰っちまうのさ。
 「おんばく」も「芣苡」(フイ)も、オオバコのこったよ、念のため。「芣苢」とも書くらしいがね。

 ところで『本草綱目』には「車前草」(これもオオバコだよ、念のため)の異名を蝦蟇衣と書いてある。蛙に着せる衣だってさぁ。
 かと思うと、信州でもここいらから妙高あたりまでの方言で、オオバコを「がいろっぱ」と称んでいる。「カエル葉」が語源だっちゅう噺だ。
 和漢おのずからに、似た心持ちってことかねぇ。あるいはかような取るにも足りない、子どもの戯れ唄にさえ、あたしなんぞが知る由もない、旧い古~い謂れだの伝承だの、影響だのっていう、いきさつがあったもんだろうかねぇ。

   卯の花もほろりほろりや蟇の塚  一茶

 ときに蛙の神通力のことだが……。大昔モロコシの国では、仙人に飛行自在の術を伝授したそうじゃねえか。本朝では天王寺へやって来て、大いくさのさいには一武将の姿と化して、とてつもない武勲を挙げたという。
 今はおかげさんで、四海治まった天下泰平の御代だぁね。人も蛙も心持ちは和やかだ。勝手口にムシロを拡げてやってね、「福よ、福よ」と呼んでやる。ちょいと待たせやがるが、やおらそこいらの藪からノサノサ這い出してきてさ、人と一緒に眼を細めて涼んでいやがる。

 その面魂はただもんじゃねえや。一句口にしたげな顔つきだぜ。ナニナニ、長嘯子の、虫尽し歌合せの判者に選ばれたのが生涯のほまれだって?
 長嘯子って、あの木下長嘯子かい。北政所の甥っ子さんの。たしか若狭あたりの殿さんで、駄目殿だったが、歌はたいそうお上手だったお人だそうだが。その虫合せの判者? おまえ、ずいぶん長生きなんだねぇ。証拠? どれどれ。

   ゆうぜんとして山を見る蛙哉   一茶
   鶯にまかり出たよひきがへる   其角
   おもふことだまつて居るか蟾   曲翠
   稲妻に天窓なでけり引きがへる  一茶

 ほんとだ。でもよ蛙どん、おかしかねえかい。蕉門十哲宝井其角に、曲翠ってのは近江の菅沼曲水の別号だろうが。二人とも、あたしより百年前の句だぜ。いいんです? 長嘯子はさらにその五十年前ですからって……まぁねえ。
 けんど、自分の句が、有名人二人の句と肩を並べているのは、気分の好いもんだねえ。それに虫だ鳥だ生き物だとなりゃあ、あたしの得意芸だからねえ。となりゃあ、こんなのもあるんだ。視てってくんねえ。

   そんじよそこまでと青田のひいき哉  一茶
   閨の蚊のぶんとばかりに焼れけり    〃
   鵜の真似は鵜より上手な子ども哉    〃

 どんなもんだろうか。わたしら葛飾派の系統は、蕉風とはだいぶ違うんだが。
 おい、蛙どん。どこだい? いつの間に……。

一朴抄訳⑥

名残寝

 

 目覚し時計を解除してからが、安眠タイムだ。矛盾ではないだろうか。

 不規則生活を続けていると、起床したところで、昨夜はさて何時に就寝したんだったか、いやそれは一昨日のことだったんだか、一瞬混乱をきたすことがしばしばだ。
 自衛策として、就寝時の六時間後に目覚し時計をセットすることにしている。翌日用事がない、しかも前日は夜鍋作業でほとんど徹夜だったなどという日は、今夜こそ八時間だろうが十時間だろうがたっぷり眠るべきだが、さような場合でも六時間後にセットする。
 アナログ文字盤時計では、短針の百八十度真正面に目覚し針を設定すればよろしいから、間違いがない。起床時の寝ぼけ頭に、さて昨夜は何時に就寝したんだったかと、思い煩う心配もない。
 池袋ドンキで購った最安値の目覚し時計が、わが暮しにあって今のところ唯一のタイムキーパーだ。

 翌日に響くからもう寝たらどうだと咎めてくれる者もなければ、そろそろ起きねば間に合わぬぞと告げてくれる者もない。つまり家族というものがない。憐れまれたことも、羨ましがられたこともあったが、自分としてはいずれも同意しがたかった。亡父母以外に家族というものがあったことがないのだから、他の場合と比較のしようがない。
 人さまと関わりのある、対外的な仕事に就いているうちは、それが目安の楔となってくれたが、退いた今は、つまりは万事自分勝手である。

 そんな暮しでも、寝過ごすとか目覚しに気付かなかったといったことはない。それどころか目覚しが時を告げるまで正体なく寝込んだという経験がほとんどない。熟睡だの安眠だのに憧れさえ抱いている。つまり多くの老人がぼやくとおりの、眠りが浅くなる老化現象だ。
 老人に水切れは禁物。少量づつ小まめな摂水をと、健康指導を受けている。忠実に実践している。麦茶、紅茶、珈琲、牛乳、カルピス、なんらかの飲料を手近に切らしたことはないし。二種三種を冷蔵庫に常備して、作業の一区切りには口にする。
 利尿作用を促進するから摂水には逆効果とされる、ビール、酒類の摂取は極端に少なくなった。以前が多すぎたのか。もう一生涯ぶん以上飲んだということか。よほど気分が欲しない限り、飲む気にもならない。
 その代り、就寝まぎわでも頓着なく、珈琲でもなんでも飲む。すると……。

 就寝中に一時間半か二時間に一度、トイレに起きる。ひどい時には一時間少々しか経ってない。目覚しが鳴るまでに三回は起きる。世に云う老人性夜間頻尿というやつだ。
 膀胱という臓器は容量上限五百 cc. と聴いたことがある。むろん一杯となっては躰に障るし、第一そこまで耐えられるもんじゃないという。ふつう百五十 cc. 前後で尿意を催すそうだ。
 若いうちは臓器の筋肉組織も柔軟で、就寝中だったり気を逸らせて尿意を我慢したりして、二百も二百五十もまとめて排尿することができる。だが筋肉組織の老化現象で、我慢が効かなくなって、ちょいと溜っただけで激しい尿意に襲われたり、もっと進行すると失禁粗相ということにもなりかねぬそうだ。
 つまり夜間頻尿は、やがて失禁老人となりゆく道のりの一里塚ってことだろうか。景気のよろしい噺ではない。

 ところが、である。六時間経って目覚しが鳴る。設定解除する。起床してもよろしいが、まだ眠り足りない。さいわい今日は、〆切仕事も必須の家事もない。もう一時間ほど眠ってみるかと、トイレを済ませてからまた毛布にくるまる。
 そんな場合に限って安眠熟睡時間が訪れて、前日寝不足だったりしようものなら、三時間も四時間も熟睡してしまう。途中尿意に起こされることもなくだ。眼醒めてから、われながら呆れる。

 いかなる心理あるいは生理メカニズムだろうか。目覚し時計との応答やりとりが習慣化するうちに、いつしか新たなストレスとなっていたのだろうか。自分の耄碌に楔を打つための道具として、便利に使いこなした気になっているうちに、いつしか当方が目覚し時計から脅迫を受けて、ビクついている関係となっていたのだろうか。
 とにかく解除後の、おまけの寝過ごし数時間はグッスリ熟睡して、眼醒めの気分はじつに爽快である。


 生理現象の問題でもあろう。安定均一な日常を過ごすべく自分を縛ろうとするところに生じる、心理的圧迫の問題でもあろう。
 加えて、数字の魔力ということが考えられる。睡眠だの休息だのは、干天の慈雨とも申すべき値千金の質もあれば、空疎な数字合せだけの量もある。量より質に決っているのに、解っているはずなのに、数字に一喜一憂する自分がある。
 現に、眠気醒ましにパソコンを開けて、ブログのカウント数がゾロ目がちだと、今日一日きっと好いことがあるにちがいないと、ニンマリせずにはいられない。

踏ん切り


 今年、奥州路へ修行の旅に発とうと思い立った。頭陀袋を首から提げ、小さめの風呂敷包みを背にして歩く自分の、道に映った影法師だけ観るとね、おっ、すっかり西行法師! まんざらでもない気分だったねぇ。
 ところがさ、いくらナリばかり整えてみたところで、料簡がさっぱりだぁね。雪に墨染ってわけだ。似非法師、西行に姿ばかりは似たれども、心は雪と墨染の袖ってね。チグのハグよ。

 梅雨空模様だった。今さら分相応のナリに着替えるってのも照れ臭くてさ、そのまんま卯の花月の十六日だったかな、長年寝起きしたボロ家を後にしたんだった。
 二三里、そう十何キロも歩いた頃だったろうかねぇ、細杖つく道つくづく想うわけよ。あたしも六十の坂へとさしかかりさ。一夜の月にたとえれば、とうに西の山に傾いちまった齢だ。修行を了えて無事に帰って来ようなんて、虫の好いことこと考えちゃいるが、あの白川の関を越えてもっともっと向うまでっていう、大それた旅だからねえ。
 ながらへて帰らんことも白川の関をはるばる越ゆる身なれば……ってわけだ。

 行く先ざきでボロ笠菰被りの倹約・辛抱・精進徹底したとしてもだよ、逆に菅笠と俳諧の集いご提供の歓待されたにしたところでさ、命永らえて帰って来られる見込みなんて、十にひとつもねえんじゃねえかと思えてきてねぇ。発心したときの意気込みはどこへやら、すっかり心細くなってきちまった。
 そうなると、いけねぇや。沿道の家いえで鶏が時を告げる声がね、トッテカエセー、トッテカエセーって、こちとらへ呼びかけてくるように聞える。一面の麦畑に風が渡って波紋を描く、いわゆる風の足跡もね、もっとゆっくり、ゆっくり歩いていいんだぜと、こちとらを引留めにかかってくるわけさ。これじゃあ、マイルは伸びねえわ。

 とある木陰にて、どれ、ひと息入れるとするか。脚絆はずして疲れの溜ってきた脛を揉みさすってみる。なんとも頼りなく、またみっともなく痩せ細っちまったもんだ。自分で云うのもなんだが、いささか無理の効く、丈夫な足だったんだが、いつの間にやら……。
 顔を揚げると、おらが村柏原はあの山の向う、ちょうど雲がかかってるあの下あたりだろうか、なんぞと思われて、情ねえことに後ろ髪引かれちまってねえ。

  思ふまじ見まじとすれど我家哉  一茶

    おなじ心を
  古郷に花もあらねどふむ足の
     迹へ心を引くかすみかな  一茶

一朴抄訳⑤  

槍錆の嘆

西部古書会館、入口。

 昨日に引続き、組合主催の古書市。今日は高円寺の西部古書会館。昨日赴いた東京古書会館(駿河台下)の分館である。

 JR 高円寺駅にて待合せ。大学院生とその親友の会社員君、昨日も参加の三年生会長、そして私の四人参集。
 今日も下級生の参加はなかった。理解できぬではない。寒いなか、正月気分を切裂いてまで古本漁りに足を棒にするほど、まだ病に冒されてはいない。健康健全。その段階に留まって、佳き想い出を胸に、卒業してほどなく音信不通になってゆくのが、一般会員というもの。それはそれ。

 自分の愉しみだけでなく、他人の世話をし、私の助言などあてにせず自分で各地の古書店事情を下調べしては、せっかくの休日を費やしてリュック担いで足を棒にする。ドウカシテルそんな学生が、学年に一人か二学年に一人くらい出てきては、古本屋研究会を継承してきた。二十五年も。
 そういうドウカシテタ連中は今でも、大学祭だ忘年会だといっては仕事に都合をつけてくれて、なにかと現役学生を支援してくれる。なにもかも不足していた発足時を知る者もあれば、寂しかった時代を孤軍奮闘しのいでくれた者もあれば、中興の祖として会を伸長発展させてくれた者もある。
 現執行部を担う本日参加の大学院生も三年生会長も、将来のドウカシテタ連中候補だ。二人には、古書店巡りとは微妙に味わいの異なる、古書市通いという世界があることを、どうしてもお伝えしておかねばならない。


 ふだんよりも混んでいる。昨日の駿河台下もさようだったが、出品店さんがたも来場者さんがたも、本年初市とあってかどことなく表情明るく、会場全体に華やぎが満ちている。全員マスクに小声ではあるが。
 人群の景色は昨日同様だ。高円寺には、こんなにジイサン・オッサンがいたのかというような会場風景。
 同時に会場入りしても、どうしたって私のほうが若者たちよりも先に出てくる。当然だ。関心分野が限られているから、眺める必要のない棚の前で歩を停めることがない。寄合った各店さんで棚を分け合っておられるわけだが、視かけはたんなる棚の仕切りに過ぎなくとも、その縦仕切りが店と店との境目である場合には、左右の棚景色ががらりと変る。私の関心を惹く本が混じっている可能性がある棚とそうでない棚とは、ひと眼で判る。

 表へ出て、自販機で缶珈琲を買い、一服する。正午をわずかに回った。なんとも心地よい陽射しだ。
 今さらのように、道をはさんで会場を眺める。板の間へは、昔は入口で履物を脱いで上った。上り口あたりが脱ぎ置かれた履物で一杯だった。下足札の用意などないから、自分の履物を解りやすい場所に置く工夫もしたし、ここでの市へは目立つ色合いの運動靴を履いてきたもんだ。履物のまま上れるようになったのは、はて、いつ頃からだったろうか。

 庚申通りに小さく店を開けていた、女性向け小間物店兼業の古書店は、廃業していた。特色豊かな商店街を抜けて駅周辺に戻ってみると、高架下の大工事の煽りか、老舗都丸書店さんももう一軒の有力古書店も、店を閉じていた。
 南口へ回って、阿波踊りで有名なアーケード街の緩い坂をくだる。アーケードが切れて、南高円寺方向の新市街。老舗の古書店にシャッターが降ろされている。その先に、サブカル雑貨や古着や、いったいなんのご商売かと首を傾げるような個性的古書店がかつてあったのだが、廃業していた。つまりは、私の脳内の記憶情報が古過ぎて、役立たないのだ。

 時間が余った。荻窪に移動。南口の岩森書店さん、古書ワルツさん、竹中書店さんの有力三店が健在とは承知していた。若者たちに古書店を巡ったと実感してもらえるに十分な店ばかりだ。かろうじて責をふさぐ。
 例によって私は速い。ドトール珈琲店にて息をつき、一行を待つ。そして再会と散開。私は独り、西荻窪へ移動。本日の痛切なる反省。情報の錆びつきは古書店散歩の命取りだ。西部古書会館を眺めたあと、高円寺歩きが成立しないとなって、西荻窪へという場面が生じないもんでもない。確かめておこう。
 若者にはつねに人気の音羽館さんも、格調の盛林堂さんもお元気。旅の本専門の可愛らしい書店さんも健在だったが、古本屋研究会にお眼をかけてくださった花鳥風月さんと、もう一軒の有力店さんは廃業していた。
 西武池袋線大泉学園まで、バスが出ている。始発から終点まで、ゆっくり揺られながら、またも反省。私は錆び果てた。これからは必ず、グーグル検索をしてから出掛けよう。

 やっとわが町に帰ってきた。引きこもり老人としては、たいした散歩だった。とにかく古書会館での初市を若者にお見せする。この正月の目途だったが、やれやれ、不十分ながら了えた。
 ようやく正月休みである。いつもの店の、いつもの席で、正月といったら〆鯖と板わさでしょう。なにか?

紙牡丹



 友達に魚淵って男があるんだが、こいつがどうもねぇ……。

 魚淵の家の牡丹は、他に比べるものありえないほど見事だと、もっぱらの評判でね。次つぎ口コミに伝わって、近在はおろか国ざかいを超えた信州外のお人までが、わざわざ観にやって来られようって日々なんだ。

 あたしも今日、通りがかりに立寄らせてもらった。十メートルもあろうかという立派な花壇がしつらえられてね、ふいの雨にも対応できるように蔀(しとみ)って、つまりハウス設備だねぇ、今風に完備されててさ、噂どおりたいしたもんだった。
 白に近い花、紅や紫が濃い花、隙間もなく咲き揃っているんだが、葉陰にいくつか、黒い花と黄色い花とが覗いたりしている。こりゃ珍しい、こんな色の牡丹を眼にするのは初めてだ。誰だってわが眼を疑わずにはいられっこねえや。こいつぁ評判を取るのも当り前だと、感嘆ひさしうしたねぇ。

 ひとわたり眺め了ったところで、待てよぉ……って気が起きたのさ。道を戻って、黒花の前にしゃがむと、心を静めてとっくり眺めてみた。心なしか表面がぱさぱさと水気乏しく、見すぼらしい気がする。周りの花が今を盛りのお嬢さんたちとすれば、黒花だけが死んだもんに厚化粧を施したような印象で、とにかく艶がない。
 果せるかな、この家の主人が造花を按配して、葉陰に括りつけておいたものと判明した。なんでえ、詐欺じゃねえか。とまあ、誰しも思うわな、一度は。

 けどよ。さらにもう一度、考えてみたのさ。
 花を愛でる客人たちのために、床几が並び緋毛氈が掛けられてある。腰掛け料を取ってるわけじゃねえんだぜ。茶だの菓子だの甘酒なんぞが振舞われたりさ、あろうことか希望者にはちょいとひと口、酒まで出されるんだぜ。全部ロハ、タダ、無料でだぜ。
 毎日のようにやって来る客人に、ただひたすら愉しんでもらいたい一心なんだ。無邪気、お人好し? そうとも云えようねぇ。間抜け、馬鹿? そうとも云えようねぇ。浮世離れ、粋人? そうとも云えようねぇ。
 ところで、その程度しか云えないかい? それがあんたの限界かい?
 ま、それはともかくだ。いくど想い返してみても、おかしな奴さ。

   紙屑もぼたん貌ぞよ葉がくれに  一茶

一朴抄訳④

思いもうけぬ初詣

孔子像、湯島聖堂

 必死で早起きした。初詣なんぞする気じゃなかったんだけど。

 昨今の私にとって、午前八時起床は非日常の早起きだ。ふだんなら白河夜船、うっかりするとまだ寝入りばなといったところか。
 駿河台下の東京古書会館での、今年最初の古書市へ出掛けるつもりだ。単独行動の覚悟だが、古本屋研究会の若者諸君にも連絡だけは回してもらった。松の内にいきなりお誘いしても、出掛けてくる若者はあるまい。ダメモトの声掛けである。

 古書漁りの場所と機会という点では、一に古書店巡り、二に百貨店や超大型書店や公共施設などでの古書展示会、三にネット検索。いずれもかなりの面を、若者諸君にお伝えした。まだ伝授が手付かずなのは四番目で、古書店組合主催の古書市だ。東京古書会館およびその分館にて、週末ごとに開催されている。これを身をもってお伝えせぬうちは、引退できない。口頭での伝授不可。同行せねばならない。
 久かたぶりに、古書会館へ足を運ぶことになる。今年は整理元年。めったなことでは本を買わないと、誓った身だ。矛盾である。やむをえない。これからしばらく、古書会館へ赴く気でいる。古本屋研究会の主だった若者たちをひととおりご案内できたら、また朝寝の週末に戻るつもりだ。

 とはいえまだ松の内、空振り単独行動となるだろうとの覚悟はあった。が、待合せ場所のお茶の水駅前へ、たった一人、会長(主将)の三年生がやって来てくれた。彼女に骨子をお伝えできさえすれば、下級生には彼女から指導してもらえよう。
 「お茶の水は詳しい?」
 ほとんど知らないとの返事。だったら古書会館の前に、急ぎ足で初心者コースだ。お茶の水橋と聖橋。日販本社と喫茶店穂高と井上眼科。ニコライ堂湯島聖堂。そして神田明神へ。

 我ながら、現今の風潮に毒されておった。社会人はとっくにお仕事始めだろうから、明神さまも平常の境内に復しているものと思いこんでいたのだ。が、実際にはいまだ松の内。参道に出店が立ち並んでいるわ、昼酒の屋台がおでんの湯気や焼鳥の煙を立ち昇らせているわ、正月風景まっただなかだった。
 講の皆さんだろうか、正装に揃いの袈裟を首から掛けた団体が、境内一杯に行列して、参拝順を待っておられる。
 人並みを掻き分けて横手へ回り、わが子を千尋の谷へ落す獅子の石像を眺め、銭形平次とがらっ八の石碑を眺める。太郎次郎一座の女性芸人さんが猿回しの芸を見せて喝采を浴びている。馬鹿でかい神田神輿を眺める。いやはや、ひょんなところで初詣をした。
 天野屋さん伝統の甘酒について説明する。姉さんの大好物だそうで、会長はお土産を一袋買った。

東京古書会館、初市。

 さて、日大歯学部を眺めながら坂を下って、白水社の前で角を折れれば東京古書会館。ここでのちょっとした作法を説明してから入場。予想どおり、場内はオッサンとジジイばかり。どこへ出向いても、古書市の平均年齢は高い。そして女性は少ない。若い女子大学生を伴って入場するハゲジジイは、はたからどう見えるのだろうか。
 一時間見当で再会することにして、会場内自由行動。けっして買わない(新しいものは)。徳富蘇峰の自伝と、春陽堂の円本戯曲集のとある一冊、岡本綺堂伊原青々園が収録されている巻。これくらいは仕方ない。

 午前中の陽射しは良くても、午後は冷えてくると予想できるから、早上りのつもり。古書店街歩きは、今日のプログラムに入っていない。
 が訊けば、以前私が参加できずに、若者たちだけで自主的に神保町を歩いたさいには立寄らなかったというので、玉英堂書店の二階だけは観ておくとするか。たしかに、知らなければ入る気にならない場所だ。そこにある品物は、古書というよりも文化財だ。案の定、会長さんは瞳を丸くして、呆気にとられたふうだ。

 さてあとは珈琲と雑談で散開の運び。古書漁りの一服に腰を下す喫茶店として、若者へのお奨めはどこか。神田ぶらじる、さぼうる、古瀬戸など思い浮んだが、今日は神田ぶらじるとした。
 明日は高円寺の西部古書会館の予定。なんとしても、若者にお伝えしたいことがある。