一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

結ぶ

 「モニタリング」というテレビ番組がある。無邪気な覗き見を寄ってたかって笑い合おうとの趣向だが、オンエアを同時代で観たことはない。どういう基準でか選別されてユーチューブに上げられているのを何回か、こちらもどれどれと覗いてみたわけだ。

 ある回で、こんなのがあった。日本での暮しぶりを語り合って欲しいとのニセ企画を口実に、日本在住外国人のご婦人がた何名か(七八人もいらっしゃったかしらん)を招いて、楽屋に集ってもらう。全員互いに初対面だ。前のスケジュールが押してる(長引いている)ため、しばらくここで待機してくださいと、担当ディレクターからお願いする。その間の模様を、隠しカメラで覗くというわけである。
 同じ設定で、日本人の同人数のご婦人がたにも集合してもらって、見ず知らずのかた同士がふいに同席する破目になったとき、どう対応し合うかの違いを観察しようというのが狙いだった。
 大きなテーブルにはお茶と駄菓子の用意がある。外国人グループは、すぐさま世間噺を始め、互いの暮しぶりを話題にし始める。日本人グループは、軽く会釈し合ったまま、なかなか口火を切る人が現れない。話し始めても、ヒソヒソ会話で、話題が広がってゆかない。
 しかし、母国を離れて外国暮しをする人と、母国に暮し続けているいる人とでは、初対面同士の対応も違って当然だろう。そこからコミュニケーション能力というような結論を導くには、無理があろう。私が注目したのは、そこではない。

 外国人であれ日本人であれ、手持無沙汰のご婦人がたは、当然ながら卓上の、キャンデーだかおかきだか、包装紙に包まれた駄菓子に手を付ける。外国人がたは、包装紙をそれぞれ卓上に置いた。日本人がたは、話したり相槌打ったりしながらも、膝の上で細かく指を動かして、小さな包装紙をさらに細く折って、帯状にして結んだ。
 結んだ外国人は一人もなかった。結ばなかった日本人は一人か二人しかなかった。

 私も結ぶ。台所で出た紙類・ラップ類は、まずすべからく結ぶと云っていい。容器に移した後の塩や砂糖の袋、マヨネーズやケチャップの外装など、当然結ぶ。擦り胡麻青海苔・紫蘇振りかけなどの小袋類も結ぶ。小さすぎて結びにくいものはキッチン鋏で裂き開いて結ぶ。冷凍餃子・冷凍焼売の袋などは再利用に耐える機能を備えているが、匂いが強いので泣く泣く結ぶ。スティック型即席珈琲の小分け袋、のど飴の包装紙なども、細く折れば結べる。
 干物やワサビ漬けなど水産加工品を買ったときは、トレーは資源ゴミだがラップは結んで捨てる。冷凍庫から出した、小分け飯をほどいたラップは結ばない。玉子の殻や魚の骨を包んで捨てる用に取っておく。
 再利用できず、分別ゴミにも分類できない樹脂類、たとえば小分けヨーグルトのカップや玉子の包装などは、キッチンバサミで開いて(もしくは刻んで)捨てる。

 要は、ゴミから容積と弾力を奪ってやる。空気を捨ててやる義理はないのだ。回収の公務員がただって、空気を回収するんじゃ張合いもなかろう。
 賢い主婦はゴミが小さい! 誰かの受売りではない。私が思いついた金言である。
 「モニタリング」に出演した日本人のご婦人がたも、賢いかたがただったに違いない。