一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

わずかに

 「駅前に、お好み焼の露店が出ることあるでしょ。マスター、買ったことある?」
 「えゝ一度だけ、どんなもんかと思って。美味かったですよ」
 「あんまり繁盛しているようにも見えないけど、採算とれてるんだろうかね。時どき気紛れにしか出ないってことは、あまり儲からないんだろうね」
 「さぁ、どうなんでしょうか」
 ご近所の居酒屋で耳にした。そうか、客も経営者もご存じない時代となってしまったか。鼻持ちならぬ訳知り老人と思われるかと、気が引けて、黙っていた。

 ――気紛れではございませんで、月の八の日、つまり曜日に関係なく八日・十八日・二十八日に出てます。お不動さまのご縁日です。長崎神社さまでも金剛院さまでもありませんでな。金剛院さまの前に、ほんの小さく、十畳間ほどの垣が張り回されて、お不動さまが祀られてございましょう。そのご縁日なんです。


 昭和三十年代までは、駅北口一帯に露店が並びましてね、近在住民の楽しみのひとつでした。一番客を集めたのは、バナナの叩き売りでした。ファミマの角、銀行ATMの正面、そうだ、証明書写真の自動撮影ボックスが設置されてましょう。あそこに出たんです。バナナは高級フルーツでしたからね。香具師さんの面白おかしい口上とともに、どんどん値引きされて買われてゆくので、黒山の人だかり。ハラハラしながら観ていたもんです。

 大人たちに人気だったのは植木市ですね。鉢植えや季節の苗木が並びましてね。まだ家々の軒先には、ほんの小ぢんまりでもスペースってもんがあった時代でしたから。

 子どもたちには、綿菓子も水飴もありましたし、お面や風船やゴムヨーヨー、季節には金魚すくいも出ました。セルロイドでできた小さな船の尻に、薄荷の粒を着けて水に浮べると、薄荷が溶ける力で船が進む玩具がありました。ビー玉の入ったセルロイドの俵が、独りでに斜面をコトンコトン降ってゆく玩具なんぞも、面白かったですね。

 子どもたちの一番人気は、なんといっても漫画屋でしたね。月刊漫画誌の付録として付いていた漫画小冊子がズラリと並ぶんです。場所はいつも線路ぎわ、今の、そうですねぇ、なか卯ミスドの境目あたりに、なりましょうかね。

 月刊漫画誌、ご存じない? ごもっとも。部厚い本誌に小冊子付録が何冊も挟まれていたんです。当時の遣り口でしてね。本誌連載漫画の末尾が「今号付録に続く」となってましてね。付録漫画の末尾が「次号本誌に続く」となってたんです。
 印刷・製本の期日の都合で、そういう進行になったんでしょう。で、現場で余分にできてしまった付録だけが、夜店では、五円で売られました。
 物語は跳び跳びです。本誌分が脱けてるんですから、当然です。でも子どもの想像力にとっては、そんなもん何てことありませんでした。それよりも、好きな漫画だけを安く読めることが重要でした。
 なにせ本誌を丸ごとそっくり買うには、値段が高かったんです。で、友達と組んで、交換または回し読みの仲間を形成したものです。
 「君は『冒険王』を買いなよ。僕は『少年画報』を買うから」という按配ですな。

 ところが、ある時期を境に、この付録売り商売、消えてゆきました。週刊漫画誌『少年サンデー』『少年マガジン』の創刊です。表紙を飾ったのは、西鉄ライオンス中西太選手、横綱朝潮、あと誰でしたっけかなぁ。
 今の大人向け週刊誌のような、二つ折り中綴じ製本。つまり月刊誌よりはるかにスリム・スマート。付録なんか付いてません。その代り、あっと云う間に、次号が出ます。値段も安いので、両方読みたければ、めいめいが両方買えばよいのです。傷めないよう丁寧に読んで、あとは仲間に回すという、麗しき習慣は、姿を消しました。

 漫画も変りました。月刊誌時代のスターは、なんと云っても「正義の味方」赤胴鈴之助月光仮面が代表でしょうか。世界を滅ぼそうと企んだり、弱いものをいじめたりする奴を、やっつけるのです。
 だが週刊誌時代になって現れた英雄は、スポーツマン金太郎や伊賀の影丸。ライバルの桃太郎は悪人ではありません。金太郎が巨人に入団すると、桃太郎は西鉄へ。こらしめるのではなく、技術を競うのです。影丸服部半蔵配下の忍者として、豊臣方の忍者たちと秘術を尽して闘いますが、豊臣方とて、悪人ではないのです。
 少年漫画は、勧善懲悪主義から、技術競争主義の時代へと、移りました。

 雑誌体裁のみならず、ヒーローたちもスマートになったわけです。私も、新しい英雄たちに惹かれ、夢中になった子どもの一人でした。
 しかしですよ。以来今日まで、正義の味方は復活しておりません。鉄腕アトムがいると、おっしゃいますか? ウルトラマンがいると、おっしゃいますか? 人型ロボットであり、宇宙から来た生命ですよ。情熱と正義感から精進を重ねて、悪を退治する英雄は消えたままです。

 『サンデー』『マガジン』の創刊は一九五九年。翌年はいわゆる六〇年安保。国民的規模の大波が巻起ることは、ある程度以上のポジションにいた大人たちにとっては、容易に想像できたことでしょう。
 大出版社のお偉いサンがたが文部省に呼びつけられ、「武器をもって人を傷つけ、いたずらに正義をふりかざす漫画は、教育上いかが」と釘を刺された経緯を知ったのは、ずっと後年、戦後出版史を調べてからのことです。

 おっと、つい噺が脱線しました。そういう次第で、すっかり消えてしまったお不動さまのご縁日を、完全に絶やしてしまうことのないように、今も八の日には、わずかにテントひと張りだけですが、お好み焼の露店が、駅前に出るというわけです。