一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

別物

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松川駅付近。現場に立ちて、想う。

 私にとって九月とは、お彼岸の墓参りと菩提寺さまへの挨拶、そして広津和郎の命日である。

 日本近代文学史にあって、桜と橘のごとく、一対に称ばれる先人が幾組かある。
 藤村・花袋。およそ文学に関わる者で、ご両名の恩恵に浴さぬ者などありえない。好き嫌い、評価するしないを問わず。
 志賀・武者小路。文学のみならず芸術全般において、今日に至るまで、後進に多大の影響を残している。影響を受けている当人が、そうと気づかぬ場合がほとんどだ。
 菊池・芥川。このお二人なかりせば、文学がこれほど庶民大衆に身近なものでありえたかどうか。
 横光・川端。今日でもなお、文学をなにがしかカッコイイものと考える少数の若者が
あるとすれば、源はこゝに発している。
 平野謙本多秋五。これは私個人に限った問題。小説と戯曲と詩しか知らなかった高校生に、文芸批評という世界あるを教えてくれた恩人がた。

 わけても、これらいずれにも増して人間臭ふんぷんとして、耳よりな逸話多く、魅力的な一対といえば、広津・宇野。学生時代の出逢いに始まる、長い文壇生活を通じての、終生にわたる交友だった。

 宇野浩二歿して満七年。七回忌翌年の法要が始まろうとしていた。世話係の出版社社員たちがこまめに立ち働いて準備万端。が、宇野を偲ぶとなれば、誰を措いても最前列中央に居なければならぬ、肝心の一人の顔が見えない。刻限が迫ってくる。進行係は気が気ではない。
 「おいっ、予定どおり出られたか、念のため誰か、広津先生のお宅へ電話してみろ」
 若い社員が公衆電話へ走る。通話。
 「はい、つい先ほど、広津は息を引取りました」
 九月二十一日。両雄の命日は、同日である。

 広津和郎墓所は、上野公園から芸大を抜けてほどなくの正面入口から、JR日暮里駅西口前にまで広がる、谷中霊園にある。かつては中央に、幸田露伴五重塔』のモデルとなった塔が威容を誇っていた。昭和三十二年のこと、不倫清算を図った不埒者男女が石油をぶっかけて火付け心中をとげ、名所は焼け落ちた。
 現在は、五重塔跡として礎石だけが残り、竹垣で囲われ、経緯を記した立札が立っている。礎石の寸法と資料写真とから、かろうじて威容を想像することは可能だ。

 広津家墓所は、その名所跡のすぐ裏手にある。大きな墓石は三基。長崎から江戸へ出てきた祖父。父である硯友社の文豪広津柳浪。そして和郎。それぞれの家族がまとめられている。
 この一基が広津和郎墓石であると、視覚えある書体で彫ってある。中央公論社版『廣津和郎全集』の背文字と同じく、志賀直哉の筆跡だ。志賀が広津に宛てた書簡の封筒から採られたと、聴いた憶えがある。裏へ回ると墓誌。故人の業績が短くまとめられ、彫られてある。谷崎精二の筆跡である。

 何年前になろうか、九月二十一日の午前中に、詣でたことがある。すでに墓石前は花で埋め尽されていた。文壇的には、過去の人と観られていても、松川事件関連の人たちにとってはその恩を忘れがたく、早朝から次つぎお参りに見えるらしい。
 その花の量に圧倒される想いがして、我が手の貧弱な線香など、さてどうしたものかと、しばしうろたえた。
 ただちには去りがたき想いがして、あたりを歩いた。徒歩十分圏内に、横山大観鳩山一郎高橋お伝長谷川一夫、市川團藏、甚だしく分野違いの墓所がある。

 広津家墓所前に戻って、ボーッとしていると、霊園メインストリートをタクシーが入ってきて、五重塔跡の前に停まった。メインストリートだけ舗装されてはいるものの、車の影など視たこともなかったから、少々驚いた。
 身なり立派で恰幅の好い、太縁眼鏡の紳士が、大きな花束を携えて、降りてきた。ズカリズカリといった早足でやってくると、広津墓所に花を供えるや、想いに耽るでもなく引返して、待たせたままだったタクシーで、あっというまに去っていった。

 呆気に取られていたのだったが、のちに冷静に思い返すと、どう視てもあのかたは、中村真一郎さんだった。
 広津と中村。作風からも文学流派からも、出身学校からも交友圏からも、ご両所の結びつきは当時想像できなかった。今では、必ずしも不思議とは思わない。作風と人間理解とは、別物である。