一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

験担ぎ

いまや準縁起物、珈琲館のシナモントースト。

 珍しくお座敷がかゝって、喋りに出掛ける。陳腐な験担ぎで、出陣の日には「かつ」と名の付くものを食べて出る。が、朝から異様な暑さ。かつ丼・かつカレーはおろか、メンチかつサンドすら、口にする気が失せる。
 家からはさっさと出てしまって、「珈琲館」へ移動。妥協して、最近にわかに、準縁起物の地位にのし上ってきた、シナモントーストで軽い昼食。

 出番の一時間前に会場入り。主催者さまとのお約束だ。学生ラウンジを臨時に小ホール化。設営作業はほゞ済んでいた。たかが老人の一時間半かせいぜい二時間の与太噺に過ぎぬ催しでも、多くのかたのお手を煩わせてしまう。恐縮の極みだ。
 夏休み期間中を利用して、文章一歩上達のためのレクチャーといった趣旨だ。文学雑誌が主催する催しだから、セクレタリー・通訳・法律家・貿易商たらむがための実用日本語ではなく、小説・文芸批評の文章に、あと一歩どう磨きをかけるべきかの、ちょいとしたヒントといった眼目にちがいない。

 お集りの若者がたは、すでに書いてこられたのだろうし、七十点の作品であれば今すぐにでもお書きになれるのだろう。それを八十点にまで引上げる工夫が話題となる。
 ほんのわずかのことながら、世に通用するか否かのボーダーラインは、おうおうにして七十五点だったりするものだ。そして常時七十点を叩き出せる書き手は、全国に星の数ほどいらっしゃる。まことに微妙かつわずかな問題。が、そこがあんがい難しい。

 定刻までまだ小一時間あるというのに、すでにご着席の姿が。このかたがたのために、なにか始めてしまってはどうか。
 思い浮んだのは、テレビバラエティーの公開収録における「前振り」。とりとめない雑談を始めてしまって、「さて定刻となりました」と主催者さまからの合図で、正式に始まるという進行を、ご提案した。
 ズームで外部からご覧くださるお客さまもいらっしゃるとのこと。会場の空気感・ザワザワ感までも感じていたゞきたい。歯抜けジジイを映しっぱなしも見苦しいから、随時客席風景を映し出すカメラを用意していたゞけないかとも、お願いした。

 ――この書棚やロッカーね、十キロの力で押しても、動きゃしませんよ。でもキリを突き立てて十キロで押せば、穴が開くでしょう。庭の水撒き。ホースの長さが足りなくて、隅の塀ぎわまで届かない。どうなさいます? ホースの先を抓んで、ノズルを細くしてやるんでしょう? 文章の力を強くするには、同じ内容をより少ない言葉で表現すればよろしいのです。省略すればよろしいのです。

 ――自分らしい言葉遣いに出逢えるか否かが、鍵となります。林芙美子宇野浩二に教わりに赴いた逸話。里見弴の談話。壇一雄瀧井孝作から佐藤春夫へと宗旨替えしてスランプを脱した逸話。北方謙三さんがハードボイルド文体を発見体得した逸話。小川洋子さんが漢語と和語の微細な使い分けにも気を配っていた逸話。
 すべて聴いたか読んだかした逸話の受売りです。私自身の例は失敗談の山ですから、お客さまがたのご参考になどなりえようもありません。
 文章を読み、書けるとは、文章の色彩感・スピード感・距離感などが読めるようになることです。「好き」と「合う」とは違います。自分に合うお手本となる作家を見つけてください。そしてモノマネしてみてください。私は清水ミチコさんの芸が好きです

 ――散文表現(小説・戯曲・批評)は観察から始まります。自然観察・社会観察・人間観察、すべて含みますが、人間観察が中心です。
 なぜ観察が大切かと申せば、散文芸術が実人生のすぐ隣に位置しているからです。反対側の隣には詩がいて、その向うには美術がいて、さらに向うには音楽がいます。散文芸術も芸術的昇華度を上げて、詩や美術や音楽に伍した芸術とならねばと主張されるかたもおいでですが、私は反対です。実人生とほんの被膜一枚を隔てた隣にいることが、散文芸術の特色であり、誇りであり、あるべき位置です。
 このことは昔、広津和郎が巧みに主張したことで、今では文学者たちに共通の認識となっております。 
 その広津和郎が少年時代に父広津柳浪を視抜いた逸話。横光利一が人間観察して飽きなかった逸話(シマッタ、これ喋り漏らした)。

 箇条書きにして読めば二分。あっちへ跳びこっちへ脱線しての、いつもの出たとこ勝負で噺は九十分。質疑応答を経て、順次解散および居残りお客さまとの雑談。最後の居残り組と珈琲館へ場所を移して放談。
 つねであれば、そろそろ焼鳥屋も暖簾を出したろうとなるべき刻限だが、このところ当方体力の懸念あって、多人数の飲食ご遠慮している。いまだ熱気を残す若者がたを残して、ひと足先においとまする。出番一時間半、雑談三時間半であった。

 わが町へ帰還。今さらだが、出陣日の験担ぎ。はむカツですが、なにか?
 馬車の後ろに馬つなぐ。