一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

順ぐり

f:id:westgoing:20210920151114j:plain

江戸中期の集約

 彼岸入り。金剛院さまでも、本堂と大師堂の観音扉が開かれ、どなたでもご本尊や弘法大師像を拝見できる。
 当然お詣りするとして、それとは別に、常日頃から興味を惹かれているのは、近隣の石仏を集めて円錐形に積上げられた塚である。もとはそれぞれ別個に、近隣一円の村々の道端に立って、信仰の対象だったり道標だったりした石仏たち、地蔵・弥勒・観音たちが、ここに集結している。

 それぞれ背景に年号が彫られているが、摩耗顕著で、肉眼をもってしては読取りにくいものが多い。かろうじて判読できるものを繋ぐと、寛政から文化・文政・天保あたりのものが主だ。いわゆる江戸中期、文字どおり文化・経済の中心が江戸に集中した頃である。江戸前期、寛永だの寛文だの元禄だのといった、江戸が政治都市ではあっても、まだ文化・経済の中心が上方にあった時期のものは、眼に付かない。

 摩耗がひどくて、読取れないのだろうか。古いものは別の用途(たとえば石材として)に活用されてしまったのだろうか。それとも、このあたりにはまだ、村落が形成されおらず、信仰の対象も道標も、必要とされていなかったのだろうか。
 そういえば、山門前に立って「北は板橋、南は杉並堀の内」と道案内しておられる地蔵さまの背景にも、寛政年間と彫り込んである。
 どうやらこの頃に、あたりは村となってきたと見える。

 人口が増え、村が繁くなりゆくにつれ、耕地の開墾も進んだことだろう。道や灌漑水路も、自然の形状から人間都合へと変更すべく、土木工事が盛んにおこなわれたことだろう。田畑は方形となり、水利は理に叶ったものとなっていったろう。
 自然形状の道や水路を活用して生きた旧住民たちが、道端に立てた石仏たちのうちには、新しい村計画の邪魔となるものも、少なくなかったろう。
 ただ今現在と、本質的にはなんら変らない。急速に、新住民と次世代の御代となっていったのだ。

 邪魔になった石仏たちを、さてどう処分したものか。まさか割り砕いて石垣や護岸工事の材としたり、砂利にして道に敷くこともなるまい。だいいち、生残りの旧住民や年寄りたちが、それでは納得するまい。
 一計を案じた者がいて、または余所で類似の問題を耳にした見聞広き者があって、邪魔な石仏は次々と、金剛院さまへ運び込まれ、供養を依頼されたのだろう。
 金剛院さまでは、石仏たちを供養ののち、積上げて塚となされたのであったろう。

 金剛院さまには、江戸時代の村内全戸を記入した古地図が、保存されているとのことだ。ホームページだったかSNSだったかで、私は小画像を見せていただいたのみで、実物一見に及んだことはない。
 その古地図および名簿・過去帳によれば、現在にまで末裔が存続している家は、一軒もないそうだ。
 時の移ろいとともに新住民たちも、次々に旧住民となっていったのだったろう。