一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ネモさん

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 この町に、こんなビルが必要なんだろうか? いや、こういうビルが建つ町に、私が住んでいていゝのだろうか。スーパーへの夜間買物の帰りに、ふと立停まった。
 一階は商店街に面した店舗一軒と、エレベーターホールを兼ねたエントランス。上はすべて、住宅らしい。地主さんは、住んではいらっしゃるまい。入居されたのはすべて、他所から引越してこられた方がたに違いない。顔を合せる機会もない。

 一九八〇年ころだったか、悪名高きバブル景気のころ、池袋の大資本がアメーバー状に拡がって、この町を呑込みにかかった時期があった。地主さんや地元商店主がたが寄集って協議の結果、我が町に興行施設や遊興施設は必要ないとの結論を出した。再開発の波に乗り遅れる覚悟で、庶民的住宅地として活きる道を選んだのである。
 池袋の西には立教大学の広い敷地があり、山手通りも走っていて、距離こそ近いけれども池袋とはいったん切れた感じの町であることも、味方したかもしれない。
 かくして、利便性高い割には家賃や物価の安い、住みやすい地域と、一部で噂される町となった。

 そのころ地元のスナックで、ネモさんとよくご一緒した。カラオケという新娯楽が始まったばかりのころで、今から思えばおそろしく原始的な装置が、カウンターばかりの小店に入っていたりした。
 ネモさんは「根本さん」で、知りあったころはそうお称びしていたのが、私の滑舌が悪かったり呂律が回らなかったりして、「根モツさん」→「根モッさん」→「ネモさん」となっていった。干支でひと回りほど兄さんだったが、私からネモさんと称ばれることを歓んだ。他の客が調子づいて、ネモさんと称ぼうものなら「お前からそう称ばれる筋合いはねえ」と怒った。
 ママさんは「根本ちゃん」と称んでいた。

 ネモさんは、池袋を二分する巨大組織のひとつと云われた、広域指定暴力団の中堅幹部で、この町に奥さんと住んでいた。仕事も生きかたもあまりに無縁だったのがお気に召して、私を可愛がってくださったのだろう。浮世離れした世間知らずで、なんの害もない奴、という評価だったと思う。仕事について説明しようとすると、イーカライーカラと、先を聴こうとしなかった。聴いたところで、理解はしてもらえなかったろうけれども。
 「お勉強をしたんだろう。なんたってハヤイナダを出てるからねえ」と、初対面の人には私を紹介した。精一杯のユーモアらしかった。

 「タッキイよぉ、地元でなんか困ったことあったら、俺に云ってくれよ。どんなことでもよぉ」たびたび云われた。
 そう云われたって、商売だの事業だの金儲けだの、人との交渉事だの諍いだの、生きてゆくための積極的な側面にはからっきし疎い身ゆえ、相談するネタも持合せなかった。「そういう時には是非」と毎回応えるしかなかった。
 それを聴くと安心したように、ネモさんは十八番のディック・ミネを唄った。

 当時ネモさんは、この町を再開発すべく動いていたのだろうか。それとも再開発を阻止すべく動いていたのだろうか。われら素人に対して、口を滑らせるはずもなかった。
 人情味を前面に出して恥じぬ、面白い人だった。奥さんはすらりと長身のお洒落な人で、黙っていれば女優さん級だったが、無類の話し好きだった。「うるせえんだよ、お前はよぉ」と、ネモさんから待ったが掛るまで、喋りやめない人だった。
 お二人とも、とうに亡くなられた。

 ネモさん。こんなビルが建っちまう時代になりましたぜ。俺もそろそろ、考えなきゃいけないですかねえ?