一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

クリトン

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ソクラテス(b.c.469-399)

 ほどなく夜明け。今日も好い空模様だ。が、いよいよ時は切迫。今日こそ彼を説得しなければ、取り返しがつかなくなる。こんな場合というのに、彼は何事もなかったかのように、熟睡している。

 「おや、来ていたのか。起してくれゝばよかったのに。よく入れたね」
 牢番とはとっくに馴染だ。鼻薬もたっぷり嗅がせてある。そんなことより、祝祭に出張していた船が、今日にも港へ戻る。途中下船して近回りで戻った連中による、確かな情報だ。とすれば、祝祭期間中との理由で延期されていた執行は、もう明日だ。
 手筈は抜かりなく万全だ。受入れさきも心待ちにしてくれている。心配の種はなにもない。さぁこゝを出よう。私についてきてくれ。

 「君の好意は嬉しいし、その善意に一点の曇りもないことは認めるよ。ありがとう。だが今、私がこゝを出てゆくことは、はたして正しい選択であろうかねえ」
 なにを云っているのだ。命あっての物種というもの。正しいかどうかなんて、後でいくらでも考えたまえ。
 同じ区に生れ育ったガキ仲間じゃないか。君の気性は、だれよりも承知してるつもりだ。それにこう見えても、今ではこのアテネで何本の指かに入る資産家だ。後始末についちゃ、けっして悪いようにはしない。

 そもそもこんな事態になるはずもなかったんだ。これは報復裁判だ。だいぶ前に君から赤恥かゝされたことを、今でも根に持っている、かつての独裁政権の奴らが、「過去の来歴を新法で裁くことはできない」とする今の法律があるもんだから仕方なく、悪い神を信じているだの、若者に好からぬ影響を与えているだの、デッチ上げの信仰問題や教育問題にすり替えて、君を告発したに過ぎない。
 それが証拠に、一回目の君の演説に、多くの聴衆は喝采したじゃないか。最前列で食い入るように聴いていた、あの若者なんといったっけ、そうプラトンだ、彼なんぞ涙を流して感激していたぜ。
 501人の陪審員の多くが、恥知らずの密告者たちに買収されていた。それでも評決は250対251。これほど僅差の有罪判決が、かつてあったろうか。買収者を裏切った陪審員も少なくなかったんだ。

 「私だって生きていたい。が、たんに生きることと、善く生きることとを天秤にかけた場合はだね……」
 よしてくれっ。お説ごもっとも。ではあるが、時と場合というものだ。一回目の評決後の、君の二回目の弁明演説。ありゃあ何だっ。聴衆の気持を逆撫でして、挑発しただけじゃないか。
 二度の大戦をはじめ、アテネのために尽してきた君の戦歴を披露するだけでよかったんだ。若いもんのなかには、知らぬ者もあろうからね。また広場や市場や、いたる所で若者たちと問答し、彼らが道を踏み外さぬよう導いてきた実績を披露するだけでよかったんだ。年寄りのなかには、知らぬ者もあろうからね。
 本意ではなかろうが、命乞いするかのように、生きたいっ、と云うだけでよかったんだ。少ぉしだけ反省する振りをして見せれば、それで万事済んだんだ。
 それを君ときたら。正しい判断と通俗な判断、などと云い出すもんだから。見たまえ、二度目の評決は、大差で負けてしまったではないか。

 ぼくの身にもなってくれ。多くの若者も大人たちも、ぼくがきっと君を助け出すものと期待している。クラウドファンディングも始まってる。外国の青年たちも押しかけて来て、寄付を申し出てくれている。ほら、先年君の外国での講演を聴いた、あの連中さ。
 このまゝ君を死なせたりしようものなら、なんだ、クリトンにはその程度の知力も財力もないのかと、嗤い罵ることだろう。石つぶてだって飛んできかねない。なぁ君、ぼくを助けると思って、さぁ早く、こゝから逃げ出そうじゃないか。

 「私とて、過ちを改むるに憚るものではない。佳き考えに到達できれば、前行を取消すにやぶさかでない。どうだろう、一緒に考えてみてくれないか」
 いゝとも。たゞし時間がない。手短に頼む。
 「運動選手は、だれに相談するのがよろしかろう?」
 そりゃあ、監督・コーチだ。
 「では体調について、不快症状については、だれに相談すれば?」
 医者だ。決ってる。
 「監督や医者と、その他市民とでは、どちらが多数であろう?」
 おちょくってるのか? 
 「つまり多くの通俗意見より、少数でも優れた知恵に、頼るべきなのだね?」
 そう……なるような気がする。

 それからといもの、私という壁に向って、独りキャッチボールするかのように、彼は次つぎと理屈を繰出して、とうとうこゝから出て行かぬことがより善き生きかただとの、結論を導き出してしまった。
 翌日も、牢番に袖の下を使って、私は彼の傍にいた。時刻がやって来た。牢番はまるで悪事を働くかのようにおずおずと、毒草煎じ薬の碗を捧げ持って来て、恐縮しきった態度で、彼の前に置いた。彼は平然と飲み干した。

 彼の希望で、その後も、いろいろと話し合った。彼の態度は変らなかった。だいぶ話すうちに、彼の下半身が徐々に硬くなってきた。指先の色もかすかに変ってきた。まだ上半身も脳も平常だったから、我われは話し続けた。
 やがて、言葉尻が怪しくなり、表情も乏しくなってきた。が、二人はまだ、話し合っていた。相当長く話してから、彼は言葉を発しなくなった。

 『クリトン』は有名な『ソクラテスの弁明』の続篇もしくは後日談と申すべきものだが、『弁明』に引けを取らぬほど面白い。台詞のないちょい役の牢番を除けば、登場人物はソクラテスとクリトンという老人二人だけ。七十年前にアテネの一画の、近所に産れ育った幼馴染である。
 劇団民藝なら宇野重吉清水将夫で、劇団俳小なら小沢昭一小林昭二で、劇団雲なら芥川比呂志名古屋章で、観てみたかった。むろんプラトンによるレーゼドラマ(上演用でなく読むドラマ)だから、日本で上演されたことなど、ない。