一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

群力

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季刊『三田文學』No.148(2022 冬季号)

 『三田文學』最新号は坂上弘さん追悼特集。文学史的には内向の世代と称ばれた作家の一人で、同誌編集長としても、多大の尽力をされたという。小説家としては地味で手堅い作風で、名品が多いわりには、世間で騒がれたりすることがほとんどなかった。つまり玄人受けの作家だった。
 さらにもう一足の草鞋を履いておられ、会社員としては(株)リコーに勤務していた。私は会社勤めをしているころ、『日経広告手帖』という業界雑誌の座談会で、リコー社員として発言しておられる写真を観て、あれぇ、コレって作家の坂上弘じゃねえのぉ、と眼を瞠ったこともあった。

 追悼文および資料として、九人が文章を寄せている。佐藤洋二郎さん、岳真也さんといった、旧知のお名も見える。ご両所とも昔語りが板に付く貫禄となった。(私は全然さようでないのに。)
 岳さんは作家渡世を始められたとき、まだ慶應義塾の大学院生だったと思う。長い活動歴だ。お若い時から、こわばりめいたものをいっさい感じさせぬ、飄然たるユーモアの人だった。
 佐藤さんは、小説家としてのごく初期、まだ発表舞台を模索しておられるころ、たしか『三田文學』に作品を出された。その恩を多として、売出されて以降も、折に触れて『三田文學』には惜しまず協力してこられたようにお見受けする。

 ときに同号には、織田作之助青春賞受賞作として、松尾晴『母を迎える』が掲載されている。
 織田作之助賞は大阪市・大阪文学振興会・関西大学パソナグループ・毎日新聞社からなる織田作之助賞実行委員会により制定・実施され、本賞部門のほかに、将来有望な若い作者を対象とする青春賞部門が設置されている。青春賞部門の授賞作は、ご褒美として『三田文學』誌上に掲載してもらえる、ということのようだ。

 四年間服役して仮出所する母を、娘が迎えに行く。保護司の許しを得て、水入らずの小半日を過す。
 まずは季節外れの服しかもたぬ母のために服を。これからの保護期間を過すための化粧品・雑貨を、調達する。ついでバーガーショップへ。母に好物の天ぷらを食べさせるだけのものを、娘は工面してきたが、母はハンバーガーを所望した。

 罪状は殺人未遂。四年前、娘が帰宅すると家に妙な空気が。母が父の胸を刺した。娘はスマホを手に、110か119か、一瞬の逡巡。父が先か母が先か。
 ソフトクリームを嘗めながらコーラを飲む母を前に、娘にはこの四年間の記憶が細切れに蘇る。スマホから呼ばれる。父から電話。無事引取ったむね報告。父は来ない。が、娘は父から金を託されてきている。

 母の希望で、かつて一家が住んだ町へ行ってみる。娘もこの四年間、一度も訪れていない。近所の眼に気を配りながら歩く。家の跡地には、コインパーキングが広がっていた。
 四年間考え続けても解けなかった疑問を、娘はついに、母にぶつける。なぜ父を刺したのか。
 「名前で呼ばれたかったの」
 「それだけなの」
 「それだけ」
 保護会の施設へと母を送り届け、老練そうな保護司に託す。もう連絡をとらぬし、けっして会いになどゆかぬからと、母は云う。父からの金も、受取ろうとはしなかった。
 夜汽車の最後尾が線路の彼方へと遠く去って行くような、一篇の終りかただ。

 先生がたの選評を拝見すると、名前で呼ばれたかったとの動機では、あまりにあっけなく弱いのではとのご心配もあったようだ。お言葉ですが、これで十分であります。
 週刊誌見出しに「エリート妻」とある。家の記憶に「父がゴルフクラブで開けた十五センチほどの穴」とある。猛烈に仕事だけ考えた父だったのだ。家のことはオマエに任せると云い続けた父だったのだ。妻のことは「カアサン、オマエ」としか呼ばぬ父だったのだ。外から視たら、裕福にして申し分ないと見える家庭内に、音もなく積重なってゆく無数のものが、あったのだ。一度でいゝから、名前で呼ばれてみたかった。動機は掌を針で刺すようではないか。
 父もこの四年間、考え続けてきた。その結果、再会はあえて避けたが、娘に金を託した。様子見の電話もかけてきた。くどくどしく描けば、短篇の姿がこわれる。それはそれで、別な小説となる。

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 作者は大学二年生の一年間、私のゼミに在籍したが、私はべつだんなにもお教えした憶えはない。ゼミでは一年かけて、雑誌を一冊創る。その過程で、書く・読む・編集するについての、さまざまを経験するという教室だ。
 よそのゼミではグラフィックなものを創ったり、同時代の受けを狙った愉快な試みに挑戦したりもしていたが、我がほうは古めかしく「文芸同人誌の創刊号」。それ以外には、何も考えなかった。『琳瑯』(りんろう)という誌名だけは、私が決めた。

 かくしてこの作者は、教員からはなにも教えてもらえなかったが、仲間ができた。上級生になっても、卒業してからも、今日まで、その雑誌は続いてきている。社会へ出たての若者たちにとって、なんの得もない文学所行を持続することは、容易ではない。が、彼らには励ましたり、せっついたりし合う、仲間がある。集い合う力で、彼らは勝手に伸びてきた。
 彼らが琳瑯グループとか、琳瑯派と称ばれる日も、やがてやってくるかもしれない。視届けるには、私にはちょいと時間が足りないけれども。
 教師なんぞよりも、仲間のほうがはるかに大切という、一例である。