一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

郷土愛

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長崎八幡宮

 日和の好い日昼に買物に出るのは久しぶりだ。少し遠回りして近所散歩。あそこの梅の木、あちらさまの垣根、例年の花々はおゝむね承知している。このさい公園は除外して、個人さまのお宅を中心として。
 咲いてる咲いてる。電気ストーブと睨めっこして、寒い寒いとぼやいていたのは、私ばかりだったか。これも老化現象か。

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 あるお宅では、八重紅梅の隣りにキンモクセイが黙って立っていたりする。今は俺の出番じゃねえとふんぞり返っているみたいだ。その隣は、咲き終りのツバキ。しわくちゃになった大ぶりの花にも、まだ蜜はあると見えて、メジロが一羽。逆立ちしたり仰向けになったりしながら、花から花へと蜜を吸い吸い飛び移っている。撮りたかったが、メジロヒヨドリよりもスズメよりも、じっとしていてくれない。
 そうかこちらのお宅では、各季節のスターを一株ずつ植えておられるのか。失礼ながら広いとも申せぬお庭に、目一杯樹木が居並ぶその顔ぶれの意図が解った。

 ハナミヅキ、コブシ、ヤマボウシなど、白色大花系花木を植えておられるお宅もあるが、いずれもまだだった。金剛院さままで足を延ばせば、ハクモクレンが見事なのだろうけれど、近日中に一度、墓参りの心づもりをしているので、それまでのお預けということにしよう。

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 おっと、こういう奴も見落せない。来年もこゝにいてくれる保証はない。当方とて、来年この道を歩ける保証もない。
 ま、今や私はこゝが郷土、このまゝこの地であい果てるつもりだから、そちらさんも幸に命長らえたら、またこゝで咲きなさいな。

 人波去った夜更けにスーパーで買物するのが通常なのに、なぜ今日に限って明るい時間にかといえば、米を買いたいからだ。飯を炊く日なのに、米びつが残り少なであったのをウッカリ忘れていた。前回炊飯のさい、あゝ補充しとかなきゃな、急がないけど、などと高を括ったのがウッカリのもとだ。

 米処が郷里だと、何軒かの親戚から、毎年新米が届く。一人家族ではいたゞききれぬほどで、幸せなことに、米を買う習慣がない。手に余る場合には、手土産代りとでもいおうか、お若いかたにお裾分けとなる。自分食は前期の古米、お裾分けには届いたばかりの新米、という次第となる。
 ところが稀に、倉庫事業の難しさ、先物取引の難しさみたいな問題が生じる。入庫と出庫、需給バランスの読み間違いである。今回がその、稀な場合だった。

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 スーパーには、こんなに多種類の米商品がある。二キロ袋と五キロ袋は理解できるけれども、ドコ県産の品種や銘柄ナニと云われてもねえ。
 日常の白飯には、寿司には、炊込みご飯には、チャーハン・ピラフ・パエリヤにはと、それぞれ向き不向きやお好みがあるのだろう。まさか上新粉用だの酒造用まであるとは考えられないが。いずれにもせよ、私にはとんと弁えがない。もっぱら郷里の親戚から頂戴した米をありがたくいたゞいて、この齢まできたのである。

 選ぶ基準を持合せない場合には、値段比較で行く。「広告の品」と立札が立って、他より若干お安い袋があった。「無洗米」もあったが、私には無用だ。米研ぎには、気を遣うほうだ。

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 で、広告の目玉商品として値引きサービスされているらしい米を買った。
 それは我が郷里の米だった。