一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

街の絵柄

 ヤマボウシとハナミヅキの見分けかたを、知らない。

 高校時代の学友亀戸君のお通夜に参るべく、久びさに電車に乗ることに。
 わが駅前に立って花を着けているのは……。しばし立停まって眺めてから、まぁ通夜の日でもあることだし、常緑系の山法師ということにしておこう。。


 目的地の最寄り駅は都営新宿線の菊川だという。浅草から視て川向う。深川と称ばれる一帯だ。隣の森下駅にも、さらに隣の清澄白河駅にも、下車した経験はあるが、菊川駅で下車するのは、おそらく初めてとなる。
 かつてなん度か、森下駅から芭蕉資料館へ、そして隅田川沿いをぶらぶらするという散歩コースを歩いたことがあった。
 芭蕉が草庵を結んだのが今のどこか、正確には定めがたいらしい。ある年のこと、台風による高潮に洗われて、松尾芭蕉が愛してやまなかったと伝えられる石の蛙が出土して、ここが芭蕉庵だったろうと見做された。史跡とされ、今は区立施設として記念館が建っているわけだ。

 清澄白河駅下車であれば、まず駅脇ともいえる清澄庭園小石川後楽園駒込六義園ほか、池の周囲を巡るゆかしき日本庭園は東京にいくつもあるが、他を圧する清澄庭園の魅力はと申せば、石である。名石と名高い全国各処の石を取寄せて配した庭は、さながら庭石コレクションとも庭石美術館とも称びえて、圧巻である。
 庭園をあとに深川江戸資料館へというのが定番コースだ。江戸時代の川岸に建った船宿や漁師たちの長屋や、日用品の商店などが再現されて、テーマパークを歩く気分に浸れる。
 資料館を出れば、界隈の食堂ならどこでも、名代「深川めし」が食える。発祥は、忙しさのあまりに仕事途中で丁寧に手や顔を洗っている暇すら惜しい漁師や職人たちが、浅利の味噌汁を濃いめに仕立てて、冷や飯にぶっかけて掻っこんだものだ。現在ではもちろん、上品な丼料理となっている。
 下町情緒を演出した商店街を抜けきれば、大通りを渡った向うは現代美術館だ。また別の方向へひと駅分歩けば門前仲町で、富岡八幡宮深川不動尊ということになる。どっち方向へ歩いても、見聞の種に不自由はない。

 ずいぶんご無沙汰してしまった地域だし、今日はひと駅となりの菊川へ初下車である。けっして遅刻はならぬし、かりに到着が早過ぎても、あたりをぶらぶらするのも一興と、十八時からの通夜なのに、十五時には拙宅を出た。
 早く出立したには理由がひとつある。普通の着想から都営新宿線に乗ろうとすれば、池袋と新宿とで、二回乗換えねばならない。気が進まない。
 そこでまず練馬へ。つまり目的地の逆方向だ。そこから都営大江戸線線に乗ったまゝ、東中野・都庁前・新宿・青山・六本木・大門・築地・勝どき・月島・門前仲町と、ぐる~りと遠回りして森下まで、気楽に腰掛けて行こうという道筋を選んだ。なんの思いつきか、岩波文庫永井荷風『濹東綺譚』をバッグに収めた。

 遠回り地下鉄は、私の髙括り以上に時間を要し、文庫本は五十ページ以上、もう主人公大江匡が古本屋に寄る場面も、巡査に職質される場面も、それどころかふいの夕立が縁でお雪と出逢い、家にあがる場面まで済んでしまった。
 記憶のなかの『濹東綺譚』は、もうすこしネットリ描かれていたのだったが、読返してみると、あんがい始末好くサバサバと、いわば段取りどおりに運ばれている。読む当方が脂ぎった老人になったということなのだろう。
 そうさなぁ、荷風を読み直してみようか、などというアイデアも、頭をかすめた。

 森下で大江戸線から新宿線へ、都営地下鉄同士の乗換えでひと駅、菊川に着いた。通夜が始まるまでに、まだ小一時間ある。
 初めての街だから、商店の構えや街並みを、なんとなく眺めて歩く。お隣の森下と同じく、一本裏道へ折れると、商店をほとんど視かけなくなる。かといって住宅一色というのではない。町工場や、自営の加工場や、作業場などが眼を惹く。なにせ川や運河に囲まれたり挟まれたりしている一帯だ。川っぷちの倉庫や、部品製造工場、組立て作業場などが伝統的な地場産業だったのだろう。
 それでいて新住民のカタマリ、高層マンションもあちらこちらに見える。

 小一時間のあいだに、用紙問屋からの納品なのだろう、人の背丈ほどもあるロールに巻き取られた紙を運ぶトラックが、三台も通り過ぎていった。
 資源ゴミ回収日に当っているとみえて、色分けされた樹脂コンテナが辻々に置かれ、ペットボトルだの空き缶だのが寄せられている。レッドブルがずいぶん飲まれている街だ。

 交差点の地面で、視なれぬものを眼にした。四隅を繋ぐ四本の横断歩道の内側に、断続矢印のような、水色のマークが描かれている。しばし眺めて、立ち尽した。
 そこはもう通夜会場までほどなくだったので、友人が一人やってきた。一別以来の挨拶を交したのち、なにかなコレと、訊ねてみた。私は車の運転をしないので、交通標識や路上ペイントマークに関しては、はなはだ無知なのである。だが、普通免許保持者の友人も、憶えがないと云う。
 時を経ずに、次の友人がやって来た。彼は学生時分から、運転を趣味のひとつにしていたような男だ。挨拶もそこそこに、訊ねてみた。その男でさえ、気にしたことがないと云う。たゞ描かれている場所から想像するに、原付バイクや自転車はココを通れという指示だろうとのことだった。
 なるほど、位置関係からすると、いかにもさようである。彼らが知らぬということは、それほど普及しているマークではないのだろうか。

 後刻、調べてみた。「自転車走行指導帯」というらしい。自転車に歩道走行されては歩行者が危険だ。かといって自転車専用通行帯も設定できない場合、車道混在と称されて、自転車は車道を走れということとなる。そのさいの自転車走行帯の目安だそうだ。しかしそこは自転車の専用帯ではなく、自動車もバイクも走れる。ということは、自転車の安全はべつだん保証されまいと、とかく諸説絶えぬ法規だそうだ。
 たゞ歩行者安全の観点から、自転車に車道へ出てもらうための、お誘いお願いのようなマークだそうだ。
 それは解った。だったら普通は車道に沿って、歩道寄りに連なっているのだろう。交差点の内側に、四辺形状に連なっているのはなぜか。

 この地域には、原付バイクや自転車の荷台に、小ぶりの製品や材料や、部品や工具を乗せて往来する人が、少なくないのかもしれない。それらには丸腰の横断者との接触を避けねばならぬ必要があるのかもしれない。歩行者だって、そんなもんと接触したくはなかろう。
 または車輛との事故などが起きて、交差点内に品物がバラ撒かれてしまい、途方もない苦労をしたなんぞという災難が、いく度もあった交差点なのかもしれない。そういうかたがたが渡る横断歩道なのだ。
 なるほど、視た憶えがないわけだ。俺の街には、必要ないものなんだなと、妙に感心したのだった。次郎(私の自転車)には、はなから荷台すら付いていない。