一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

健康?

 いわゆる、なんと申しましょうか、深夜のありあわせ。

 だいぶ以前だが、写真家の高梨豊さんや、現代美術の赤瀬川原平さん、秋山祐徳太子さんらが「ライカ同盟」を名乗られて、機知に富んだ独自視点による写真活動をなさっておられた。
 主要な主題のひとつに、路上観察があった。染みの浮出た壁だろうが、絡みつかんばかりに錯綜した古い電線だろうが、マンホールのフタだろうが、街歩きの途上でふと心に染みた光景または物を、ご自慢のライカでフィルムに収める。それを相互批評されたり、短いエッセーを付して誌上発表されたり、写真展を開催なさったりもした。

 ある友人の SNS に、東京都内の町並風景が連日投稿される。名所旧跡巡りではなく、彼なりの切取り視点が独特で、愉しませてもらっている。かつての「ライカ同盟」の先輩がたの場合と同じく、われら凡人なら視過して通り過ぎるにちがいない風景を、彼の眼によって再発見させてもらっているわけである。

 彼は散歩を仕事のひとつと、それも重要なひとつと考えて日々過しているらしい。そう考えるにいたった経緯には、どうやら健康管理問題が関係しているらしい。こういう形式の、日記体裁の投稿が混じる。
 〇月〇日、血圧○○、中性脂肪○○、体重○○kg(〇〇g負け)、本日○○歩――。
 自分の体調データをつね日ごろ把握しておくことは大切だ。私もさよう努めている。「本日○○歩」の習慣は私にはないが、歩くことを健康管理の柱と考える人であれば、想像できなくはない。

 眼を惹くのは「○○g負け」である。目安もしくは目標とする適正体重があって、それに達しているかいないか、ということなのだろう。肥満を懸念する人であれば減量を、大病後の恢復を念じる人であれば増量を期しての、目標なのだろう。
 意図は伝わるが、その「負け、勝ち」という表記方法が面白い。自身を叱咤する彼の気構えも窺えるし、ユーモアを愛してやまぬ人柄も伝わってくる。

 べつの友人だが、これも日記事項を SNS へ投稿した末尾に、「明日は人と逢ってどうしても飲むことになるから、今日は我慢して〇勝〇敗」などと記されている。朔日であれば一勝零敗か、零勝一敗である。月末であれば十勝二十敗とかになる。
 すなわち、禁酒の日を勝ち、飲酒の日を負けと設定して、月末〆でもう何年にもわたって、星取勘定しているわけである。
 これもねぇ。気持ちは痛いほど伝わってくるが、私ならぜったいに採らぬ方式だ。

 酒を飲みたいと欲する日が、めっきり減った。というより、ほとんどなくなった。休肝日を設けねば危ないと忠告されるのが常だった、わが壮年期・中年期をご存じのむきからは、信じがたき光景と思われよう。
 「ま、一生涯分はもう飲んだよ」と応えることにしている。
 飲みたい気持が皆無となったわけではない。酒が嫌いになったわけでもない。なにがしかの想いが生じて、「飲みてえなぁ」と感じる夜もある。さような想いに捉われる機会が、どうやらほとんどなくなった、ということのようだ。

 酒飲みの風上にも置けぬ申しようだが、またかつての大酒飲みが申してはいかにもバチ当りだが、現在では健康維持的欲求から盃を手にする場合が多くなった。
 齢甲斐もなくムキに根を詰めることでもあって、脳が興奮状態にあるときなど、このまゝ就寝しても安眠できまいと思われて、飲むことがある。
 また晩秋からつい先だってまでは、エアコンを使わぬ拙宅内はがいして寒いので、
 「ウ~、寒いっ、一杯飲んで寝ちまおう」
 という一日の了えかたが、けっこうあった。これも体調を平静に戻すための処方であって、いわば健康維持用法としての酒である。

 健康維持用法であるから、量は不必要だ。ビールなら三五〇ミリひと缶で足りる。酒なら一号四勺入る愛用徳利一本で十分である。かつての私は、この程度を飲酒とは称ばなかった。が今は、こんな程度を、ゆっくり味わえば、他愛なき一日が終る。
 そんないじましき酒飲みにふさわしい、じつに些末な悩みが、昨日生じた。

 スーパーの値引きで贖える安酒のうちでは、燗酒はこれかなと、年月をかけて銘柄を絞り込んできている。冷蔵庫で冷して飲むのであれば、銘柄は異なるのだ。
 所によっては夏日が、なんぞという陽気になってきて、おりしも二〇〇〇ミリパックが山となり、これが今季最後の熱燗と過日覚悟した。これからはビールかねぇと、上機嫌でもあったのである。まだ冷酒には早いかねぇと、ニヤニヤもしたのである。
 にもかゝわらず、気圧の谷が停滞しているだのなんだのと云っちゃあ、肌寒さがぶり返してきた。ビールは補充してある。次に贖うのは冷酒用か、などと考えていた矢先に、
 「寒いから、一杯飲んで寝ちまおう」
 という日が、またやって来た。どうしてくれようぞ。燗酒用を仕入れれば、一回に一合半しか消費しない私のことゆえ、山になる前に、陽気は暖かくなるに決っているのだ。

 どっちでもいゝじゃねぇか、どのみち全部、飲んじまうんだろうに――。
 それは世俗的合理の世界。一升酒喰らっていた男が一合半で満足するにいたる年月をおろそかに、もしくは度外視した俗論に過ぎない。じつは空間概念の把握法の問題であり、芸術論の問題なのである。