一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

生意気

テアトル・エコー第44回公演パンフレット、1973.3.15-4.2 新宿紀伊國屋ホール

 観劇日が判らない。不覚にも、チケット半券が残ってないのだ。場所が新宿だけに、跳ねたあとジャズ喫茶にでも寄ったりしているうちに、紛失してしまったものだろうか。この時期はまだ、新宿で芝居のあとは三丁目の「呑者家」、という後年の定番コースはまだ確立されていなかったように記憶する。

 その代り、書きかけのアンケート用紙が挟まっている。あらかじめ配布されていた用紙に、幕切れ後記入しかけたものの、時間切れで記入しきれず、提出せずに持ち帰ったものか。(年齢)24(ご職業、学校名)早稲田、と万年筆で書いてある。
 (感想欄)「●観劇前記:本を読んだ感じでは、こんなにあからさまにやって、一体大丈夫であろうかと思いました。またドンチョウが下りる場面で、観客のセンスが作について行けずに、客席がシラケるのではないかと心配しました。●観劇後記:(以下空白)」

 観劇前記と後記とはまた、生意気千万。内容も生意気である。そのくせ観劇後の感想をまとめることができずに、提出を断念したものと見える。ほれ視たことかっ。
 たゞ台本を読んでから劇場に赴いたとみえる。その点だけは感心。井上ひさし『珍訳聖書』が書下ろし新潮劇場シリーズの一冊として刊行されたのは昭和四十八年(1973)二月。舞台公演が三月だから、刊行後ただちに買い求めて一読に及んだものだろう。

 風刺喜劇と見えた芝居がじつは劇中劇だった。と、そう見えたのが劇中劇中劇だった。と、そう見えたのが劇中劇中劇中劇だったというように、同心円的に込入った構造の芝居で、途中いく度も緞帳が降りる。嘘の劇中劇緞帳である。観客に一杯食わせながら驚かせ笑わせる、演出の妙が発揮されるべき構造だ。二十四歳にもなっていた留年学生は、演出手腕の心配までしている。じつに生意気だ。

 (今後紀伊國屋演劇公演で採りあげてもらいたい作家・作品・俳優の希望欄)「小生、ただ今、矢代静一氏の作に感心を寄せております。必然的に、矢代氏のものなら何でも観たいと思います」
 これまたなんたる生意気か。用紙が紀伊國屋ホールによるアンケートであることを、忖度しているのだ。テアトル・エコーによるアンケートであれば、矢代静一と書きはしない。いくらなんでも作風・傾向が違い過ぎる。矢代作品を上演しそうな、たとえば文学座なり青年座なりも、こゝ紀伊國屋ホールで公演しうることを念頭に置いた気配が窺える。じつにいやらしい。
 矢代作品に夢中だった時期が、たしかにあった。筋でも主題でもない。台詞の佳さに惹かれていた。言葉の響きの美しさだ。しかし二十四歳の学生。その着眼も生意気至極である。

 パンフレット中央ページの出演者紹介。懐かしきテアトル・エコーのかたがた。というより、今にして思えば、声優分野のレジェンドたちがズラリ。多くは遠方へと移住なされた。
 まもなく盂蘭盆会だ。同窓会を企画して遠隔地のかたがたをも招いていたゞけそうな、こちら在住のかたといえば、松金よね子さんあたりだろうか。