一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

現金なもん


 拙宅の葉叢などから翔立つはずもなさそうなヤツが、ふいに翔んで出た。

 秋の草むしりも佳境に差しかゝろうとしている。この先まだ、刈草の山はいくつも出現することだろう。狭い敷地内が堆肥製造地のようになってしまう。土に還すといっても、独り作業には限界がある。

 やむなく、ひと山をゴミ回収に出した。台所ゴミと紙屑類とタバコ吸殻といっても、一人家族につき、たいした量ではない。しかも切り刻めるものは細かくし、長いものは結ぶことを習慣としているから、ゴミの密度は維持されている。よほどの台風ででもないかぎり、私のゴミが風に転がることはありえない。
 そこへ枯草をひと山ぶん詰めこんだ。家庭ゴミ3 枯草7 ほどの割合だろうか。ドクダミやシダ類やヤブガラシほか蔓草類の死骸も、一部は地に還るが一部は燃やされて天に還るわけだ。

 佳境に入った草むしりについては別述するとして、作業後には泥まみれの軍手を洗う。洗うといっても丁寧には程遠い。洗面所のタブに水を張り、五分間ほど浸けておく。手洗い用の石鹸をなすり付けて、汚れのひどい箇所同士をごしごしと擦り合せる。濯いで流す。それだけだ。もとどおりの白さに戻そうなどという気はない。
 もはや永久に出番がないかもしれぬエアコン室外機の上に干す。ついさっきまでは、曇り空のくせしてクソ蒸暑いじゃねえかと、独りごとで悪態ついていたにもかゝわらず、もっと照ってくれゝばなあと、陽射しに期待しているのだから、現金なもんだ。

 ところで、石鹸や洗濯洗剤が進物の花形だった時代があった。えっ、そんなもんがどうして? お若いかたは、首を傾げるかもしれない。薬用洗顔だバラの香りだ、肌艶を護るだ香水成分が持続するだと、大手メイカーが躍起になって新商品開発し、宣伝を競ったものだった。「また石鹸の詰合せをいたゞいちまったよ」という台詞を口になさったご経験おありの向きも、さぞ多かろう。
 「ウチはきっと、一生石鹸を買うことはないね」ご多分に漏れず拙宅でも、たびたび母とさよう云い交したものだった。脱衣場の上に吊った収納棚に、十二個入りだ二十個入りだという平べったいボール箱が、段重ねに積上げられていた。
 たしかに私は、洗顔石鹸を買った経験はない。洗濯洗剤やシャンプーや、風呂桶洗い用やパイプ汚れ取り用の液体洗剤は、底を突けば補充するが、固形の洗顔石鹸を商店にて買ったことは、一度もないのだ。

 しかし偉いもんで、あれほど高く積み上っていた段重ねのボール箱が、気がつけばめっきり低くなっている。ともすると、固形の洗顔石鹸を商店にて買う日が、私にも訪れるのだろうか。などと一瞬は考えたのだったが、あるとき気紛れに、箱類を棚から降してフタを開けてみて、愕然とした。個数の少ない箱ほど上に積んであったらしく、残り数箱は、ニ十個二十四個入りの大箱ばかりだ。
 私はあとなん年シャワーを浴び、台所で手洗いし、草むしり後に軍手を洗わなければならないのか。これだけの石鹸を使いきれるように、健康維持しなければならぬということだろうか。容易ならざる事態である。

 軍手を干し了えて、どれ一服と、煙草に火をつけ、缶珈琲のプルを引っぱりながら、一週間前の現場を視渡す。ドクダミヤブガラシを主敵と目していたために、目こぼししがちだったシダ類が、絶好の機会到来とばかりに背丈を伸ばしてきている。
 彼らに甘い顔を見せたのは、考えあってのことで、ついウッカリしたためではない。彼らは根も茎も弱い。ドクダミヤブガラシの茎や蔓や地下茎に較べれば、なんの抵抗力も持たぬに等しい。ひとたび気を入れて抜きにかゝれば、アッという間に殲滅可能だ。
 蘚苔類やドクダミに地表を占有されても、空気と陽光を求めて上空へ顔を出すべく、彼らは尋常でない伸長力を武器としている。とにかく速い。その代り、組織の構造としては脆く、弱い。遠い先祖は、風雨の影響を受けて折られ、倒され続けたのだったろう。陽光は受ける。次世代繁殖のための胞子は葉裏へ隠す。そして風雨を可能なかぎりやり過す。いなす。耐える。気が遠くなるほどの試行錯誤の結晶が、こういう葉の形状なのだろう。
 その研究進化は多とするが、私としては抜きやすい。与しやすい相手だ。

 今日はめったに足を踏み入れぬ地域の草をむしったのだったが、場違いのように蝶が一羽翔び出てきた。そこらの葉裏で羽化したものだろうか。それともたんに休んでいただけか。
 私が移動するのに纏わりつくかのように、周囲でヒラヒラ遊んでいる。それならばと思い立ってレンズを向けた。なかなかじっとしていてはくれない。ようやく二回シャッターを切ったところで、もう好いでしょうと云わむばかりに、道路を超えて南へ去っていった。