一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

つはものどもが



 高校生時分の仲間たち七人が寄っての梅雨祓い。心安い店のふたテーブルを拝借して、思いおもいの飲食料を持寄る形式での飲み会だ。

 ご店主が先ごろ巨きな治療からご退院なさったばかりで、まだ本調子でない。にもかかわらずビールと刺身大皿と乾きものとをご用意くださった。それに氷と炭酸と水。あとはすべて各自持寄りとの企画になった。細やかな手分け分担なんぞの算段をする顔ぶれではない。
 案の定ワインが来るバーボンが来るジンが来る焼酎が来る。飲み盛りだった頃の記憶だけは消えぬものと見え、酒瓶の林立である。かような光景はあらかじめ眼に見えていたから、私は酒類を避けた。出汁巻玉子焼、小肌の酢漬け、ポテトサラダ、ワサビ漬け、ピリ辛キャベツ浅漬けなどを、手提げ袋に詰めて参加した。出汁巻だけは仕入れ先をひと工夫したものの、それ以外はなんのこともない、スーパーの総菜売場で調達した。つね日ごろ台所にあっての貧しい独り酒盛りを、そのまま仲間との席に持込んだ格好だ。

 食糧も魂消るほどの豪華さだ。まだ温もりのある唐揚げが二種類も出る、崎陽軒の焼売が出る、ピザが出る、最高級の厚切りハムが出る、チルドパックされた豪華料理がいく袋も出る、地方特産の高級漬物が出る。それぞれ宿痾持ちか大病手術経験者ばかりの老人七人、いったい誰がそれほど食うというのか。
 その意気軒昂たるやおおいに佳し。しかもご一同の、私より遥かに裕福なお暮しぶりが瞭然とする。よろしきご家族があって、みずから包丁を握る必要はなく、仲間に美味いものを振舞うためなら多少の出費も辞さない。ありがたいやら、もったいないやらだ。

 招集幹事による主たる議題は、この数年にあい次いで他界した仲間三名とかなり以前に他界した一名、それぞれの遺稿集を編もうではないかとの下相談がかねてより進んでいて、その進捗状況の報告とさらなる協力依頼だ。
 そもそもこの仲間たちというのが、高校生時分にはクラブ活動だの運動会だの文化祭だの、すなわち主として教室外にて気を吐いた連中の集りで、自称(いや他称もか)「落ちこぼれ集団」である。広い括りで、文学・芸術少年の成れの果てだ。後年社会人となっては、出版・放送・広告宣伝・商業美術などの業界に身を置いたか、あとは文学屋か政治運動家だ。それぞれの業界にあっての寄稿や発言ばかりでなく、かつての同人誌や、さらには生徒会雑誌や文芸部機関誌など中学高校時分の若書きまでも漁るとなれば、続々と出てくる連中なのである。

 今回の気高き志に、私はろくろく協力できていない。私の手持ち資料なんぞは、他のだれかが所持しているからだ。そして今風の情報整理や組版入力などのノウハウも、持合わせない。中心となって骨折りしてくれている仲間のお邪魔にならぬよう気をつけるのがせいぜいのところだ。
 骨折り人のひとりからの厳命がくだった。いずれはわが身で、けっして他人事ではないのだから、自分の発表紙誌の切抜きなり、原稿なりデータなりを、各人取りまとめておくようにと。
 なるほど、それぞれの分野にてご活躍あった諸兄においては、さような遺稿集は知友にとってもご遺族にとっても、有意義なことだろう。が、私はそれには適さないので、ご辞退申しあげるしかない。

 私ごときは日本文学最底辺での、穴埋め職人であり片づけ屋だった。隠密同心みたいなもんで「武門の儀あくまで陰にて、ご下命いかにしても果すべく」の世界である。そんな掲載紙誌が山ほどある。
 では売文の殻ではなく、みずから望んで書いた文章はとなれば、たとえば当『一朴洞日記』にしてからが、開設以来すでに原稿用紙で三千枚くらいにはなっていよう。そんな遺稿集なんぞ、あったもんじゃない。

 ともあれ今となっては懐かしき武勇伝にも不祥事にも事欠かぬ顔ぶれだ。夕刻参集しても四時間五時間はまたたく間にうち過ぎ、羽目を外すこと禁物の老人会はお開きとなった。云わぬこっちゃない。持寄り食糧は大量余りである。ことごとくの始末をご店主に一任するのはいかにもご迷惑至極。土産としていただけるものは、遠慮なく鞄に詰め帰った。
 という次第で、本日わが食卓には、ふだん口にしている品より数段上等な菜が載る。