一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

被害者未満



 豊島区役所、健康保険課の村上さんからお電話をいただいた。昼下りのことだ。

 ――三月十日に発送いたしました通知書に同封いたしました返送書類の期限が六月十日でしたが、今日現在到着いたしておりません。通知書についてご記憶は?
 「区役所からの通知にはすべて眼を通してきたつもりでした。さぁて、ウッカリしたものでしょうか、どういった通知書でしょうか?」
 ――令和元年から四年末までの医療費総額と、該当する 23,368 円のご返金額のお報せです。お受取りには、書類のご返送が必要だったのですが。
 「今年の郵便物でしたら、まだ処分しておりませんので、すぐに調べてみます。で、どういうご返送項目なのでしょうか? 今からでも返送できますか?」

 ――期限は過ぎました。ですが多岐さまの場合、金額も医療機関もはっきりしておりますし、わたくし、豊島区役所健康保険課の村上から金融機関へ直接連絡しておきましょう。さほどお待たせせずに、たぶん三十分ほどで、金融機関の担当者からお電話が行きますけれど。お取引き銀行さんはどちらでしょうか?
 「信用金庫ではいけませんか? 日常的にもっとも頻繁に取引きしておりますが」
 ――えーと、かまわないのですが、できればみずほさん、りそなさん、三菱さんなどがご便利かと。
 「そのなかでは UFJ さんとお取引きがありますけれども」
 ――けっこうですね。わたくしから UFJ さんへご連絡しておきましょう。詳しくは UFJ さんのかたとお話合いください。

 ――それですべて済むとは思いますが、万一なにかしらありました時のために、ご連絡できる携帯番号を伺っておきます。どうぞ……。
 「あのぅ、携帯は持っておりません」
 ――持ってない? ……なるほどネ。(プツン……)
 唐突に、切れた。

 これまでいく度か、目白警察署の防犯課から電話をいただいている。老人独居家庭にあっては、特殊詐欺防御のために電話をつねに留守録モードにしておき、コールに対してすぐさま直接応答などせぬようにと、ご忠告いただいてあった。犯罪目的の来電においては、声の記録が残るのを嫌がることから、メッセージが吹込まれることはめったにないそうだ。ご忠告をありがたく承り、つね日ごろはお云いつけどおりにしてある。
 だが本日の場合、来訪者の予定があり、お待ち申しあげているところだった。のっぴきならぬご用でも発生して、急なご連絡をいただいたのかもしれない。ちょうどデスクに向ってパソコンを開いていたので、受話器はすぐ眼の前だ。ついつい出てしまったのだった。

 結果として、実害はなにもなかった。しかし先方最後の台詞「……なるほどネ」が、どうにも気にかかる。
 このまま物語を進行させれば、このジジイを云いくるめることなど赤子の手をひねるようなもんだ。けれど仮にジジイを ATM の前まで誘導したところで、そこで携帯を用いた送金手順の指示ができなければ、作戦完遂はおぼつかぬとの、見通しがついたということだろうか。
 それとも、なにィ、今どき携帯を持ってないだとォ! さてはこのジジイめ、手口を知っていやがるナ。薄うす警戒しながら、さも引っかかってるようなフリをしていやがるナとの、見通しがついたということだろうか。こんな手を使いやがるのかと、思われただろうか。
 親切な地方公務員の声だったのが、急に興醒めしたみたいに少々投げやりに「……なるほどネ」と云い捨てられ、通話が突然切られた次第を、いかに受取ったらよろしいものか。豊島区役所健康保険課の村上さんに、一度お逢いしてみたい気も、ちょいとする。

 いずれにせよ、ひとつだけはっきりしたことがある。携帯不所持の私は被害者にすらなれない。