一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なまり懐かし


 郷里の従兄が、名物の笹団子を送ってくださった。大好物だ。

 製造加工技術も保存技術も長足の進歩をとげて、今じゃ一年中愉しめる笹団子だが、かつては季節食品の印象があった。あるいは拙宅の経済事情により季節商品だったに過ぎず、巷には年間を通して存在していたのだろうか。いや、やはり笹の葉の保存処理の問題があるからなぁ……。
 初夏のころ、伝統の祭である「えんま市」とともに、この菓子の季節がやって来るという印象だった。

 生意気にも郷里呼ばわりしちゃいるが、私の「郷里」はまがい物である。たしかに臍の緒はその地で切った。母の実家である山村だ。しかし両親はすでに故郷を出て、横浜に暮していた。
 桜木町駅から山手頂上の動物園・遊園地へ向って野毛坂をだらだらと登り、ほとんど登りきったあたりの右手が野毛山公園で、左手つまり坂を挟んだその正面が、さるご大家のお屋敷だった。お屋敷の勝手口脇に、四畳半ひと間の小屋があって、両親の住まいだった。一家してそのご大家に居候していたようなもんだ。
 押入れと三尺四方の玄関三和土が付いていたから、小屋の規模は六畳間ほどだったろうか。煮炊きのかまどと便所とは外にあった。戦前は、お屋敷の庭手入れを仕事とする爺さんが独り住いしていたと聴いた。

 明日とは云わず今夜の米をいかにするかという、両親の悪戦苦闘時代だ。私を身籠ったもののそこで出産するのはとうてい無理で、母は実家の山村に戻って出産したのである。で、私の出生地ならびに本籍は、新潟県ということになっている。
 昭和二十九年に、一家はわが町へと引越してきて、借家住まいとなった。さらに五年後に父は一世一代の大借金をして家を建て、わが町の内で引越しした。その間も貧しいままで、両親ともに働いていたから、私はとかく放っておかれた一人っ子だった。小学校が夏休みに入ると、待ってましたとばかりに、郷里へ預けられた。父の実家と母の実家に半分づつだ。「お祖母ちゃんちに泊りに行く」と、本人はいたってへっちゃらで、意気軒高たるものだった。農村には、興味惹かれる遊びがいくらでもあった。農作業も手伝った。

 中学進学まで、そんな暮しだった。たまたま入学した中学が私立男子校だった。両親にしてみれば大散財だ。入学してみたら、周りはえらく学力ある奴ばかりなのに驚いた。ベイゴマを回せる奴がいないのにも驚いた。喧嘩の強そうな奴もあまりいなかった。いたしかたもない。少しづつ都会少年らしい振舞いかたを身につけていったのである。
 だから「郷里」といっても、居住地文化を変更したわけではない。それを云うならむしろ横浜野毛坂が郷里だ。また青雲の志を抱いて上京したというのでもない。東京に住んで、地方出身者を迎えた側に属する。

 突然思い出した。上野駅のどこだったかの出入口から出たすぐ脇の、人目につかぬ場所に流行歌「あゝ上野駅」の歌詞を彫った石碑が建っていたはずだ。何十年も前のことだ。その後改装を繰返して上野駅はずいぶん明るくなったと聴いている。歌碑は今もどこかにひっそりと建っているのだろうか。それとも逆に、新名所のごとくに飾り立てられて、人目を惹くモニュメントとなっているのだろうか。
 さらに思い出した。大阪の法善寺横丁を入って夫婦善哉の前を通って、裏通りへ抜けてしまうだけではけっして眼に止ることのない、お堂の裏手の目立たない場所に流行歌「月の法善寺横丁」の歌詞を彫った石碑が建っていたはずだ。何十年も前のことだ。あのあたりも綺麗な観光スポットとして改装が繰返されてあるのだろう。今でもひっそりと建っているのだろうか。それとも人目を惹くモニュメントとなっているのだろうか。

 「あゝ上野駅」が胸に沁みるような、生れ育った郷里から単身上京する寂しさ心細さを、私は知らない。「月の法善寺横丁」が胸に沁みるような、単身で他人の飯を食う修業に身を投じた経験もない。
 だが桜木町駅から港へ寄った界隈で、三人四人でジープに山盛りに乗った、三角帽(略帽)のアメリカ兵が身を乗り出して、こちらへ手を差出してきたときの匂いを憶えている。それにたまたま乗ったタクシーの運転手さんが新潟県出身者だとは、ふた言三言で判る。
 「お客さん、よく判りましたねえ。あたしも東京長くなって、なまりはまったくないはずなんだがなぁ」
 なに云ってんだい。ダダ洩れ丸判りじゃねえか。