一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

個性


 個性ということを、唯一無二の神秘的尊厳のように考える言説に出逢うこともあるけれども。

 自宅にあれば、就寝前にひと缶飲めば十分の缶ビールを、珍しくふた缶空けてしまった。と、驚くべきことに気づいた。缶の胴と蓋との関係が一定の缶には、まずお眼にかからない。缶胴のデザインを同一方向に向けて並べると、缶蓋のプルトップの穴は、一時方向と四時方向とに異なった。試みに、冷蔵庫からカフェオレの缶を取出して眺めると、こちらは一時方向と七時方向つまり百八十度反対方向を向いている。

 飲料に限らず、缶詰の命は胴と蓋との密閉密着技術にあると申してよい。二重巻締という技術が用いられているはずだ。胴の上端と蓋の縁とには、それぞれ決められたのりしろみたいな余剰部分があって、それらを重ね束ねたかたちで丸める第一ロール(巻締)段階があり、その丸まった箇所を圧し潰して密着させる第二ロール(巻締)段階があって完成する。技術の核心であって、それこそミクロン単位の計測や実験が重ねられた世界にちがいない。
 だが別個に製造された缶蓋を缶胴に載せる工程は、まさか手作業とまでは思わぬが、道具に毛の生えたていどの、単純構造をもつ機械によるのだろうか。かなり自由勝手な印象を受ける。人型ロボットの腕や脚のような、ユーモラスな動きを想像してしまう。

 缶を裏返してみると、メイカーにより商品によって表示方法はいろいろだが、製造番号や消費期限が表示されてある。製造工場や機械ラインまでがコード化され、不測の事態が発生した場合には、生産ラインにまで遡って追跡調査できるようにしてあるのだろう。じつに行届いたものである。
 問題は印刷方法と数列ラインの向きである。書体(フォント)がいわゆるデジタル数字であることからも機械化されてあるのは一目瞭然だし、プリンター同様にドット状インクを吹きつけて定着させたものにちがいない。熱や衝撃を発生させて中身の商品に障っては一大事だから、工程の前後関係に工夫があるのかもしれない。
 さて数列の向きだが、缶胴のデザインとの整合性は見られない。缶蓋のプルトップの方向との整合性も見られない。蓋と胴と底とは三者三様である。つまり密封を了えた商品が軌道を転がるなり行列するなりして移動して行き、ある地点にふと留まったスキに、脇からシュッと印刷してしまうのだろう。

 品質とは何だろうか。味や喉越しなど、味覚・触覚に関わる満足度。含有成分など、知覚に関わる満足度。衛生管理や消費期限など、情報開示の安心感。打って一丸となって価値を生み、価格を維持させているのだろう。
 では飲料の個性について、私は長年どう考えてきたろうか。各商品の品質に対する、評価や好みに過ぎなかったのではなかろうか。いわば恣意的判断に過ぎない。商品自体の個性とは、本来はいかなることなのだろうか。
 ―― 神経細胞の末端がね、瞬時も休まず猛烈な動きをしている。どんどん細胞が死んでゆき新しい細胞が産れてくる。脳の細胞だって例外じゃない。昨夜寝る前の自分と今朝起きた自分とが、同じ人間だなんて保証はないんだ。持続しているのは意識だけさ。人間性だ個性だなんて云われるもののほとんどは、教育や伝達の結果であり、出逢いのによる刺激に対する反応の習慣化に過ぎません。

 養老孟司さんの教えに、眼を啓かれた想いがしたことがある。インタビュアーは当然質問した。
 「では先生、個性とは何ですか?」
 ―― 福原愛チャンと小錦とは違うということ!
 インタビュアーは追加の質問ができなかった。動画を観ていた私も、思わず息を呑んだ。(まことに遺憾ながら、じつは養老さんが「福原愛チャン」とおっしゃったか「小泉キョンキョン」だったか「上戸彩チャン」だったか、記憶が曖昧だ。)