一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ジョーダン


 普段着のモンペを着用のまま、マイケル・ジョーダン・モデルのスニーカーを履いて、ラッパーのライブに出かけたようなもんだ。

 とびきり生きの好い文学雑誌が届いた。『江古田文学』114号だ。頭から尻尾まで「日本実存主義文学」大特集である。
 世に云う「実存主義」に熱中したのは、ずいぶん上の世代だ。私の学生時代にはすでに、前衛音楽がスタンダードナンバー化したかのように、「実存主義」は新着の新思想というよりは、浅く上澄みだけが一般教養化した風潮だった。むろん一部には根源にまで遡って、血まなこで勉強する学友があったけれども。
 歴史はグルッと廻って、ふたたび若者たちから問いかけられる時代となったのだろうか。詩と詩人研究を専門とする論客がある。熱心な気鋭教員でもあって、周囲には有望な学生や若手 OB がひしめく。で、かような特集が立ち上がってきた。

 花のひとつくらい付けたい気はあっても、私の手には余る。だいいちさような切口から文学を考えたこともない。加えて「実存」なる語の概念も定義も、指し示す範囲も、歳月を経るうちに私が知るところからは微妙に変容してきていることだろう。この間の推移について、私は無知である。
 ところが編集部から、アンケート回答せよとの仰せが舞込んだ。多人数に回答依頼するなかの、私もひとりに過ぎないという。であれば、当方時代遅れの半ボケとご承知のうえでのご用命なのだろうから、かりにトンチンカンな回答を申しあげたところで、その的外れが存在理由となりうる場合もありえよう。俗に申す枯木も山のだの、世間にはこんなひともだのといった、いわばモザイクタイルのワンピースである。
 それならばと、気楽に回答を返信しておいた。その掲載号が届いたわけである。一度売った原稿をここに再録は道義にもとるが、今週中には一般書店に配本されようし、しょせん山の枯木ひと枝だから、雑誌の宣伝と考えてご寛恕をいただこう。

 お訊ねは三つだった。各問回答は四百字以内ということで。
――(1)あなたにとって、「私」とはどんなものですか。
 「私」とは、自分が視る(感じ取る)ことができたものの総体と考えます。わが感受性に映りこんだもののモザイク的構成物が「私」と思います。見えないもの、および視そこなったものの総体を「世界」と考えております。
 それ以外に、先験的(意識以前の無自覚な)生命体としての「私」がありますが、こちらは血統的に祖先から受け継いだ、きわめて臆病にして自己保存的動物性で、どなたさまにおかれても、あまり相違なきものと考えております。

――(2)実存主義は終わったと思いますか。終わったとしたらどんな意味で終わったか、終わっていないとしたらどんな意味で終わっていないか、教えてください。
 「実存主義」をいかに定義すべきか、いささか躊躇いたしますが、我流解釈にて申します。終るもなにも、それ以前に、終りようなどなかろうと考えております。
 (1)の続きになりますが、視たものは刻々に「私」の燃えカスとなってゆくものです。新たに視つつあるあるもの(新規の、未知のだけでなく、日常ルーティンをも含めて)の総体が「私」です。「私」とは存在者というよりは、現象のようです。なんらかの座標上にある瞬間々々の「位置」です。それを「実存」と称ぶなら、実存以外の生きかたなどありえぬこととなります。色即是空の「空」を「変容つねなきもの」と理解するようになって、この考えに至りました。
 若き日には、「私」をなんらかの存在者と考えていたように思います。

――(3)これからの世界の流れを決めるべき思想は、どんな思想だと思いますか。
 応えるすべがございません。眼玉を「私」の外へ持出すことができれば、「世界」のなかで微小な領域を囲っている「私」の外縁が見えるのかもしれません。ですが私が「私」であるかぎり、「私」の果て(外縁)は視定めることができません。「世界」は私にとって、どう足掻いても見えざるものです。未知生焉知死(いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らむ / 論語)を、私はそのように読みました。

 以上がわが回答の全文である。
 『江古田文学』の名誉のために急いで申し添えるが、かようなナンジャモンジャを口にするジジイは私ひとり(と、じつのところはほんの数人)だけである。三百ページを超える大冊のほとんどは若者たちによる、「実存」というキーワードに寄せた作家論・詩人論であり、詩とエッセイとである。現今の若者の声をお聴きになってみたい向きには、打ってつけの一冊となっている。
 とっておきのジョーダン・モデルなんぞ、履いて出るんじゃなかった。