一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

絶頂期

気に入らぬ風もあらふに柳哉  仙厓

 岐阜県の農家の子が地元の臨済の禅寺で得度して小僧になったのは十一歳で、十九歳のとき神奈川県の寺へ移って本格修行に入る。師より印可を受け、寺を出て独り行脚の旅に出たのが三十二歳で、福岡県の寺へは三十九歳で入る。小僧時代を含めて、ここまで二十八年間の修行だった。以後引退までの二十三年間を住職として過した。
 仙厓が画筆を執ったのは四十代後半からというから、住職として寺に落着いてからの画業ということになる。人を食ったユーモアと、達者なんだか乱暴なんだか得体の知れぬ豪快な筆致は初めからだが、それでも初期の画題は菩薩であり達磨であり、七福神であり寒山拾得である。つまり仏画であり禅画である。軸に仕立てて床の間を飾るに不足はない。

 しかし画として傑出しているのは、なんといってもタガが外れたように奔放自在となっていった後半の画業だ。空っとぼけた賛とあいまって、一見画題に不向きなものまで描かれ、賛を解読せねばなにを描いたか判らぬものまである。さような境地に至ってからが、仙厓である。 
 住職引退後も、画を所望する客は引きも切らず、画家としては多忙だったという。八十三歳のおり、今云うところの断筆宣言をして「絶筆の石碑」を立てたりもしたが効果なく、結局は八十八歳にて入滅まで、筆を手放すことはなかった。
 高雅であろうとする気配など微塵も感じさせぬ、開けっぴろげで辛辣なユーモアが、当時の庶民たる檀家衆からこよなく愛されたということだろう。

 いかなる偉人達人も、生涯の絶頂期は十年とは続いていないと、私は視ている。活躍期間の長い人も、絶頂前の修行期間がたまたま人眼を惹く姿をしていたり、絶頂後も周囲の敬老精神に支えられて脚光を浴び続けたに過ぎない。そして絶頂期をなん歳ころに迎えたかについては、まことに人それぞれだ。
 宗教者としてはいざ知らず、画人仙厓については、膂力も気力も充実していただろう齢ごろよりも、あちこちに衰えが見えて多少ボケてきてからが、生涯の最高到達点だったように思われる。
 富岡鉄斎を称揚する向きが、しばしばそれを云う。同感だ。もし富岡鉄斎が八十歳以前に他界してしまっていたら、世に「鉄斎」は残らなかったといっても過言ではない。

 面白半分に申すのではない。えらいことだ、俺はどうしよう、と考えているのである。