一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

玉ねぎ占い



 一喜一憂の規模が小さくなってきた。

 玉ねぎの皮が、薄くしかもひと玉丸ごとクルンッと剥けたときは、かなり嬉しい。今日は好いことがある日だとまで思う。
 成熟度によるものか乾燥具合によるものか、薄皮が実からはがれづらくて、妙に苦心することがある。人差指の爪先で容易に済ませることができないのだ。いきおい包丁の刃の手前角を使うことになるが、薄皮が途中で裂けて、その先がかえって手間となってしまうことがある。かと思うと包丁が入り過ぎて、使える皮まで剥いてしまうこともある。そんなときはもちろん、多少の手間がかかっても薄皮をはがして、直下の外実ひと重を復活させるけれども。
 もっとも厄介なのは、外皮の半分が薄皮色に変色していながら、もう半分が実の色を残して、ツートンカラーになっている場合だ。包丁の先端で変色部分を切離して使う。外科手術を施すわけだ。しかし残した部分だとて、乾燥してしなびが来ていたり硬くなっていたりすることもある。全面放棄が正解の場合すらある。原則は通用せず、一回ごとの判断によるしかない。
 そんなのに当ったときには、今日は運の好くない日だと思う。


 飯を炊く。米びつから三百ミリカップ八分目で二杯、炊飯器の内釜に取っている。いい加減な目分量だが、おそらく三合に足りないくらいだろう。研いで水加減してから、猪口一杯の酒と切り昆布とを投じて、小一時間ふやかしてからスイッチを入れる。
 炊きあがった飯を小分け握り飯にして冷凍するわけだが、握りの型はわが家に古くからある蛸唐草の磁器椀と決めてある。蓋付き椀だが蓋の出番はめったにない。母はこれで茶碗蒸しを作った。もとは組み物だったろうが、自然の破損により数が減り、三脚か四脚になっていたのが、東日本大震災でほとんど割れ、一脚だけが器と蓋ともに奇跡的に生延びた。私は茶碗蒸しを手掛けないが、小分け飯の型として常用調理器具の一員たり続けている。

 炊飯一回で小分け握り飯がなん玉とれるか。炊飯量も小分け量も、よろづ目分量だから、一定しない。半端も出る。ごく稀に、切り好くちょうどになることがある。今日がさようだった。内釜の内壁にこびり着いた飯までを、丹念にしゃもじで掻き集めたところ、余剰も不足もなくきっちり十個の小分けとなった。
 今日はこれからなにか好いことが起る、幸運の日にちがいない。

 なんとちっぽけな不運や幸運であることか。そんなこと歯牙にもかけず、というか思いつくことすらなく半生を過してきた。あながち老化現象とばかりは申せまい。こういう現実を、やはり知らなかったのだと思う。喜怒哀楽はどこまで極小化できるものなのか、確かめてみるのも老人の仕事のひとつではないかと、考え始めたところだ。