一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

来日公演



 外タレ(死語か?)来日公演のプログラム類。とある年のとある宵に、一部のファンを熱狂させ、その一夜には宝物のように輝いたが、翌日以降は、ファン当人にとってかけがえのない想い出であり続けても、印刷物としてはたんなる記録でしかない。今となっては、とうにデータ保存済み記録の、証拠物件でしかない。市場価値を申せば、紙屑に過ぎまい。
 「歴史資料、風俗資料ということもありますからね。よろしいですね。どんな切れっぱしでも、勝手に判断して捨ててはいけませんよ」
 古書肆のご店主から、きつく釘を刺されている。

アート・ブレイキー(d)&ジャズメッセンジャーズ 1965.1.
 共演:リー・モーガン(tp)、カーティス・フラー(tb)、ジョン・ギルモア(ts)、
  ジョン・ヒックス(p)、ヴィクター・スプロール(b)、パット・トーマス(vo)
 ブレイキーがいく度来日したものか、数えてもいない。ライブを聴いたのは一回きりだ。
 「メッセンジャーズだって? さすがにボビー・ティモンズにもベニー・ゴルソンにも間に合っちゃいねえんだ。俺が聴いたのは、まだ「サイドワインダー」よりずっと前の、若かったリー・モーガンがいて、カーティス・フラートロンボーンが加わって、フロントが三管になった時代さ」
 酒場トークとしては、懐かしげにも自慢げにも、口にした台詞だ。

● 四大ドラマー競演(Ⅱ)フィリー・ジョー・ジョーンズ、バディー・リッチ、ルイ・ベルソン、チャーリー・バーシップ 1965.1.
  共演:ブルー・ミッチェル(tp)、ジュニア・クック(ts)、ジーン・テイラー(b)、八木正生(p)
 四大ドラマーの第一回興業が評判をとり、たしか二回目の企画が成立したのだった。第一回にはマックス・ローチシェリー・マンがいたらしいが、私は間に合っていない。
 第一部は四人ともジャズマンの正装であるダークスーツに無地のネクタイ。休憩後の第二部は、やや打ち解けた感じの演出だった。緞帳が揚ると、三人はセットに着座してるのに、フィリー・ジョーだけがいない。司会者が改めて四人を紹介する。フィリー・ジョーは最後の四番目だ。
 「アン、フィリー。フィリー・ジョー・ジョーンズ
 フィリー・ジョーが、ぬぅーっと立ち現れた。しゃがんで、バスドラムの背後に隠れていたのだ。客席は爆笑と拍手の渦だった。
 やや打ち解けた衣装とはいっても、三人は落着いた無地のスーツだったが、フィリー・ジョーだけは、茶色の濃淡が織りなした格子柄のジャケット姿だった。レコードで聴いた限りでは、ちょいと挑戦的で尖ったところのあるドラマーと思っていたのに、剽軽でお洒落なサービス精神に、すっかり感心してしまった。

オスカー・ピーターソン(p)トリオ 1966.1.
  共演:レイ・ブラウン(b)、ルイ・ヘイス(d)
 緞帳が揚ると、無人のステージにトリオの楽器セットだけ。下手の袖から一人が登場して、上手寄りのドラムセットまでゆっくり歩いて着座し、呼吸を整える間をとってから、やおらドラムソロを始める。ハイスパートではなく、抑えに抑えた音量で。
 と、下手袖から二人目がゆっくり登場。あっ、レイ・ブラウンだ。寝かせてあったベースを起し、チューニングでも合せるかのように、なにげなく弾き始める。ドラムソロとリズムがピッタリ合う。
 デュオの調子が温まったころ、下手袖から巨体が登場する。聴衆から割れんばかりの拍手が湧き起り、デュオに相乗りするかのように、ピアノの第一音が出た。

● サミー・デイビス Jr,のステージライブ盤
 名人芸だった物真似メドレーが収録されてある。長い一曲でフランク・シナトラだのディーン・マーティンだの、トニー・ベネットだのハリー・べラフォンテだのルイ・アームストロングだの、十二人の歌声がサミーの物真似で聴ける。

 貴重と云えば貴重、時間と脳味噌の無駄使いと云えばそのようでもある、わが紙屑類の処分を、古書肆に依頼する。
 
● オデッタ日本公演
 まだ若き(三十代?)フォークソング歌手として、ゴスペルを唄っていた時期のオデッタだった。その後アフリカ系アメリカ人としての人権活動家の時期があり、長い沈黙の時代があり、友人エラ・フィッツジェラルドらと交流してジャズに接近した時期があり、老いても車椅子の歌手として唄い、バラク・オバマの大統領就任式で唄えることを楽しみにしながら、就任式前に七十七歳で他界した。
 私が聴いたのは、なんのショーアップもせずに、ひたすらゴスペルソングを唄い続ける彼女の声だ。マイクと音響以外に仕掛けもない舞台の中央に立ったまま、ギター一本を肩にかけて、独り唄い続ける歌手の姿というものを、私はこの人とジョ-ン・バエズ以外には視たことがない。

● アフリカ・バレエ団日本公演 1965.4.

ミラン・スラデクとケルン・パントマイム劇団日本公演 1981.5.

● 中国京劇団訪日公演 1982.9.

● 国立モスクワ中央人形劇場日本公演 1987.11.

 その時その場では、震えが来るほど感動したものが、はたして自分になにを残してくれたのだったか。今の自分にどう影響しているのだろうか。かいもく判らない。ただわずかに、歳月をかけて磨き上げた芸というものはたしかに揺ぎないものだとの、畏敬の念だけは残っている。
 その結果が今の自分だとすると、やはり時間と脳味噌の、さらには小使いの無駄使いだったかとも思われる。記憶断片を、古書肆に出す。