一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

重装備の季節



 年に一度の贅沢をさせていただく。

 従兄から、変り蒲鉾のご恵贈に与った。上越市の製造元による創作蒲鉾で、蒲鉾を芯にして焼鯖を巻いたもの、鮭を巻いたもの、焼き穴子を巻いたものの詰合せだ。私にとっては年に一度しかお眼にかかれぬ珍品である。

 従兄弟従姉妹の会とでも称ぶべきものがもしあるとすれば、衆目の一致するところ長老にして会長は彼だ。他には考えられない。
 地方公務員として勤め上げながら、先祖伝来の田畑と家屋敷とを守りとおした。二棟あった伝来の土蔵のうち一棟が、新潟地震で歪み半壊となったさいには、英断をもって始末した。なまこ壁様式による古蔵の修理は、現代の建築技術をもってしてはむずかしいとのことで、新たな一棟を建てるよりも物入りとなるらしく、苦渋の決断だった。ぎっしり詰っていた先祖からの申し送りの品じなを吟味選別し、処分するには、よくよくの胆力を要したことだったろう。同じく樹齢なん百年とも知れぬ庭木を、いく本か始末しなければならなかった。これまたおおいなる決断力を要したことだろう。
 つね日ごろは、人生に大鉈を振るう性質(たち)の男ではない。大声を控え、いつも笑顔とユーモアとを絶やさぬ男だ。家族にも恵まれ、孫の成長になにより眼を細める男だ。しかし、分け隔てなく穏やかそのものと見える物腰の裡に、いったいいかばかりの見識が潜んでいるものか、どれほどの忍耐と決断とを経てきたものか、私は怖ろしい気がして、面と向ってじかに訊ねたことがない。
 先祖と家系とに対して、妻と子らとに対して、職と職場とに対して、地域と隣近所とに対して、いったい幾重にわたる責任を、彼は果してきたのだろうか。だれにでもいく度か訪れる人生の岐路に差しかかるたびに、ことごとく私ごときとは逆の途を辿ってきたに相違ない。
 そんな従兄から、絶佳の珍味が届いた。わが食卓の大砲となる。


 迎え撃つがごとくに対応するのは、年間をとおしてわが身を守ってくれている、小物特殊部隊だ。月並にして威力には乏しいが、おのおの持場を外したことのない単一専門職集団である。
 ニンニク紫蘇漬と野菜味噌漬とは、たまたま同じ小鉢に格納されてある。もとは「天草 粒ウニ」の進物用小鉢だったらしい。記憶はない。母が捨てずに食器棚の奥に収めてあった。梅干の格納容器も母の保存品だが、木製樽型の陶器小鉢という点が面白くて、私が梅干用とした。商品名も販売元も記されてないので、もとの用途は知れない。いずれも私が母から台所を継承してほどなくからの登板だから、二十年ほど同じ職務に就いている。
 ラッキョウ用だけが、再登板して年が浅い。長らく同職に就いていた小鉢が、私の粗相により割れた。その顚末を日記に書いた憶えがあるので、この四年以内のことだ。で、この小鉢の再登板となった。これのみは進物容器ではなく、陶器店からの購入容器だ。かつて母がなにかに用い、飽きたか余ったかして食器棚の奥に休眠させておいたものを、私が再登板させた。

 季節の風習により、多くのかたがたからお心づくしを頂戴する。どれもこれも私にとっては高価で珍しいものばかりだ。わが食卓にあっては、重火器であり強力破壊兵器である。私は軽機関銃を引っさげて、対応させていただく。