一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

天を翔ける



 言葉はたしかに、天空を翔けた。

 画像でも動画でもなく、音声でもない、純然たる言葉だけによる造形世界ということについて、しきりと考えた時期があった。詩ではなく、散文を材料にして考えた。
 高校生時分には、萩原朔太郎中原中也に惹かれた時期があったし、生意気に鮎川信夫田村隆一を読んだりもしていたのだったが、詩はもういいや、という料簡になっていた。純然かつ本質的とは感じたものの、形式の限界があって、容量が足りないと思ってしまったのだった。
 まだ西洋の長篇詩という形式を知らなかった。ホメロスもダンテも読んだことがなかったのだ。

 やがて言葉による造形も、つまるところは人の姿と動きの表現であり、色であり形であり音である、すなわち美術・音楽と変るところはないと思い知るにいたる。「言葉だけによる」というような幼稚なこだわりを、ようやく突抜けることができた。あんがい手間どった。
 副作用というか、薬が効き過ぎたと申すべきか、小説・戯曲のみならず批評文もまた人物表現にほかならぬと感じられ、論理だの批判だの究明だののみに終始する思弁には、まったく興味を失ってしまった。新たなこだわりに捕えられてしまったのだ。文芸批評を核とする売文を始めようかと企てる身には、致命的な自己矛盾をきたした。

 ところで「純然たる言葉だけによる造形世界」なんぞと考えた時期の核心教材が石川淳で、私にとっては懐かしき残骸である。石川の筆から出た言葉たちは、たしかに天空を翔けた。その背にまたがって、私は「言葉だけによる」との夢を観た。
 手もとの『全集』は揃い本ではない。古書店の晒し棚に紛れ込んでいた安売り本を、一冊また一冊と買い溜めていったものだ。美本も汚れ本もある。繰返し読んだ巻もあれば、とうとう手付かずに了った巻もある。第三巻が二冊あり、第十一巻と第十二巻とが欠落している。
 『全集』完結後の作品は、新刊を買った。晩年の石川淳は雑誌「すばる」をおもな発表舞台としたから、集英社の刊行物が多い。
 伝記執筆者でも詳細研究者でもない私なんぞには、身分不相応な諸本である。読み直すかもしれぬ代表作は、文学全集の『石川淳集』に選抜されてあるし、ちくま文庫講談社文芸文庫で文庫化されてある。


 石川淳(1899 - 1987)は東京浅草区(今の蔵前)に生れた。父は銀行家にして東京市議会議員だったが、祖父が漢学者で、六歳にして祖父から『論語』の素読を受けた。中学時代は和漢の古典や江戸文学や鴎外・漱石に親しんだが、東京外国語大学フランス語科に進み、アンドレジードやアナトール・フランスを愛読したという。小説家デビュー以前は、フランス文学の翻訳家だった。
 芥川賞受賞作『普賢』は今読返しても高尚かつ難解な小説だ。煙に巻かれて合点がゆかぬ選考委員もあったようだが、文章力は圧倒的で「志の高い作者であることはたしかだ」というような委員選評もあった。

 戦後は坂口安吾太宰治と並んで無頼派文学の一員として流行作家となった。が、その作風ゆえに、身辺や家庭内事情があからさまに打明けられるような作品は見当らない。坂口三千代『クラクラ日記』は夫坂口安吾を回想した身内作家伝の傑作だが、その一節に、折りにふれて訪問した仲間作家たちの住居のうちでは、あまりに余分なき索然たる安吾家に一番似た風情の家は、石川淳家だったとの記述がある。
 余談ながら同書には、石川淳による「あとがき」が付いている。疾風つねに吹荒れる安吾家には、しばしば灰皿も皿小鉢も水平に飛んで砕けたが、三千代夫人にだけは当ることがなかった。夫人はいち早く安吾の内側に隠れたのである、という名評中の名評がある。

 石川淳一辺倒という愛読者も少なくない。日本の小説は石川淳作品とその他の小説とに二大別される、という素人批評を眼にした憶えすらある。
 わが同世代の先頭走者だった金井美恵子は、句点少なく読点でつないでゆく息の長い文体を石川から継承した。蔓草のように対象に絡みつき、搦めとっては天空へと運んでゆく速度感は、たしかに継承された。さらに現在活躍中の小山田浩子にも、筆法は継承されている。金井や小山田が継承した側面が、石川の一側面に過ぎぬのはむろんだが。

 処分にあたって悩ましいのは、本丸の小説類ではなく、夷齋(いさい)と号して書かれた『江戸文學掌記』ほかのエッセイ集である。古今東西和漢にわたる見識が散りばめられたブツクサ類は、汲み尽せぬほどの上質短文の山である。にもかかわらず金輪際文庫化されることはあるまい。が、これも私なんぞには身分違いかもしれない。
 石川淳を古書肆に出す。文学全集や文庫本に拾われた代表作で十分とする。さいわいにして諸家との対談・鼎談集『夷齋座談』がなぜか二冊あるので、一冊を残す。野口武彦石川淳論』をおまけに付ける。