一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

賢明の限界



 正確に読み取れていたら、きちんと肚に収まっていたら、もっと賢くなれていたかもしれない。いや賢いか賢くないかには天分の限界もあろうが、せめて少しは役立つ男になれていたかもしれない。
 
 ブルクハルトの名を知ったのは、学生時分の早い時期だったろう。なにせもっともご厄介をおかけし、酒場への鞄持ちを拝命していた恩師が、ラテンおよび初期フランス文学の一途な学者だったから、まだ教授が素面のあいだには、じつに数多くの歴史家や学者文人についての名と書物について、四方山の噺を拝聴できた。
 酒が定量を一滴でも超えると、ほぼ日本語が通じなくなる師だった。そうなってからがむしろ師の本領で、行きつけいづこのママさんがたも、師の取扱いには熟練しておられて、感服のほかないお見事な手並をもって、手の焼ける駄々っ子をあやしてくださった。だが師の名誉のために強調しておくと、断じて酒場で憎まれてはいなかった。あまりに規格外れの無邪気さを珍しがられ、むしろ愛されていた。そりゃ迷惑がられてはいたけれども。
 「先生をお車にお乗せするときにはね、お供さん、乗るときに前もって行先を運転手さんにはっきり伝えてちょうだいね。お鞄はかならずドア側ですよ。奥はいけませんよ。頼みましたよ、お供さん」
 各酒場のママさんがたから、私は多くのことを教わった。ほどなく私も、ああそろそろだな、あと一杯でヒューズが飛ぶな、もしくはスイッチが入るなと、師のかすかな口調や挙動の変化から予感できるようになった。

 西欧中世の定義については、ホイジンガが大流行の時代だった。学生はほぼ残らず『中世の秋』を入門書としていたのだったろう。が、ホイジンガが新説たる所以は、ブルクハルトから掘り起さねば見当すらつけられるものではないと、師から諭された。
 のちに林達夫花田清輝を読む段となって、やはりブルクハルトの名にぶち当ることとなる。矢代幸雄に導かれてルネサンス美術に触れる段にも、ブルクハルトが眼前に立ちはだかった。
 没後世に出た大著『ギリシア文化史』の日本語訳は、まだなかった。『イタリアルネサンスの文化』がブルクハルトの代表作と目されていた。

 私ごとき門外漢には、『イタリアルネサンスの文化』だけであれば『中公 世界の名著』シリーズの『ブルクハルト』一巻を残せば事足りる。また『ギリシア文化史』は今日では文庫化されてある。
 ヤーコブ・ブルクハルトを、日本の学者による研究ともども、古書肆に出す。


 京都大学学術出版会による「西洋古典叢書」の魅力は圧倒的だった。クセノポンといえば『ソクラテスの思い出』しか知らぬ私には、こんな著作もあったのかと、眼を瞠る想いがした。ひとりクセノポンのみならず、基礎知識の足りぬ私には、そして外国語をまったく読めぬ私には、それまで諸家の著作巻末の参考文献表でわずかに眼にするのみだった多彩なギリシア(そして一部ローマ)古典が、次つぎ翻訳刊行されてゆく光景に、溜息しか出ぬ想いだった。

 なぜ溜息が出たかと申せば、私があまり緻密に本を読まなくなって以降の刊行だったからだ。もっと早く、これを読めていたら……。
 およそ四半世紀あまり前から、大学教員となった。なんらかの学識が備わっていたからではない。道場で北辰一刀流を稽古した経験はない。もっぱら辻斬りや遺恨の果し合いの現場で身に着けた、度胸と腕っぷしが身上のやくざ剣法だ。さような流儀も時と場合によっては学生に有用と考える、大学もしくは学部だけを渡り歩いた。若者に範を示すことなんぞは求められず、稽古土俵へ降りて若者に胸を貸すことを求められた。
 お役目大切と考え、またこんな私を雇うのも冒険だろうと察しもして、雑文・埋草の文筆をやめた。やがて会社勤務もやめた。ひとコマいくらの非常勤教員の身だから、もとより大学なり学部学科なりの運営にはなんら責任がない。責任を負う資格もない。ただつねに学生から姿が見える処へ身を置き、いつでもどこでもなんでもの話し相手たりうることだけに気を配った。
 あまつさえ教員拝命のころからの十年間は、看病・在宅介護に明け暮れした時期でもあった。父の要介護の認定度数が上るにつれて、会社勤務も売文も早晩やめざるをえなかったのである。丁寧な読書なんぞは夢のまた夢に過ぎなかった。

 あらかたを了えて、こんな書物でもゆっくり読んでいられる日々が、もしもやって来てくれたらと夢想する対象のひとつとして、京都大学学術出版会の西洋古典シリーズはあった。
 じっさいにさような日々と身の上とになった。眼が追いつかない。根気が続かない。脳の情報処理能力がいちじるしく減退してしまった。加えて、生きているうちに通読したい、再読したいと感じる書物・作品があまりに多過ぎる。西洋古典シリーズの優先順位は下ってしまった。

 なおクセノポンの大事な著作に『アナバシス』(筑摩書房)がある。アテネの軍人として小アジア地域へと出征したさいの軍記である。待ちに待った心地で、刊行直後に購入した。のちに文庫化もされた。
 松平千秋の訳者あとがきによれば、親本の翻訳に気がかりがあって、文庫版にて訂正したとある。思い返せば私は、ヘロドトス『歴史』もヘシオドス『仕事と日』も、松平訳により通読した。縁ありまたご恩もある翻訳者だ。訳者意向を尊重し、文庫版を残し単行本を出す。
 それやこれや、例によりわが書架乱雑につき、これがすべてかと詰問されれば自信はないが、今確認できるクセノポンを、古書肆に出す。

 プルタルコスについては、初読から文庫版で読んだ。たしか通読していない。折おりの興味から、関連ある人物だけを拾い読みした記憶だ。もはや古代地中海岸の英雄たちから、じっくり学ぶ時間も残されてはいまい。
 岩波文庫本『プルターク英雄伝』(十二冊組)と筑摩文庫本『プルタルコス英雄伝』(三冊組)とを、古書肆に出す。