一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

潮目が変る

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林忠彦写真集『日本の作家』より、一部分を無断で切取らせていただきました。

  志賀直哉は開戦直前まで、今こゝで戦争してはならぬと考えていた。が、日本は開戦ししてしまった。開戦してしまったからには、この戦争、なんとか負けずに了って欲しいものだと念じ続けた。戦後、率直に回想している。
 だから白樺(=富裕階級)は駄目なんだという、左翼陣営からの批判があった。志賀の戦争責任、などと云いだす者まであった。
 広津和郎は開戦直前まで、こんな馬鹿な戦争があるかと考えていた。が、内外に矛盾は多く、どっちつかずの鬱陶しい気分は、世間にも自分の心にもわだかまっていた。いざ開戦となってみると、善悪はともかく、これで明快になった、すっきりしたという気持に、たしかに自分もなった。戦後、率直に回想している。
 文壇屈指の聡明人にして、進歩的発言も多かった広津にしてこれかと、揶揄した者もあった。

 志賀や広津に戦争責任など、あるはずがない。というより、国家の方針決定に関与しえぬ立場にあった、賢明な大人の日本人として、しごく当然な心の動きである。その心の動きを正直に吐露することに、いささかの危険が伴うような時勢になってなお、率直に回想したのである。
 それを戦争責任だなどと。小児病的な杓子定規論客というものは、いつの時代も声が大きい。

 またか……。潮目が変ったとばかりに、新たな大声が出てくることだろう。お前はオリンピック開催に反対したのだから、観戦する資格はない。これまで刻苦してきたアスリートたちに謝れ。声援したり感動するなど、もってのほかだ。舌の根も乾かぬうちの平然たる自己矛盾を、恥知らずとは思わんか、などなど。

 私は東京開催を、疑問視していた。誘致段階からである。「復興五輪」という名目に嘘があったからだ。この季節が、アスリートたちの力量発揮に最適の気候だとの触込みにも嘘があったからだ。感染症問題が発生してからは、我が国の出入国管理制度と能力を想像すると、やはりよろしくないと考えていた。先行投資がすでに巨きく、今から中止すれば違約金も膨大だとの脅迫的話題が現れてからも、それでも大事となるよりマシではないかと考えていた。
 今年に入って、さていつ頃のことだったか、中止なり返上なりの機会をすべて失ってしまったことが明白になった。どうあっても開催されるとなれば、なんとか大事件なく無事に終了して欲しいと、念ずるようになった。
 開会式が催されてもまだ、今からでも中止せよとのご意見もあったが、それには同意ではなかった。

 もっとも怖れていた大事件とは、高温多湿でも感染症でもない。テロリズムだ。日本の諜報・防衛・公安の力量がどれほどの水準にあるのか、まったく知らない。
 今のところ大事件の発覚もないようで、ひとまずやれやれだが、水面下では幾多の攻防があったにちがいなく、その実態が国民に報されるのは、今後のことに属する。あるいはそこを掘下げるジャーナリズムなど、日本にはなく、闇に埋れるのかもしれないが。

 私ですか? えゝ、観ましたとも。日の丸を振る気で(拙宅には日の丸ないのだけれども)パソコン前に腰掛けていたのは、女子バスケットボール。3×3も、5×5も。ともに上出来で、満足。それと男女とも、空手の形。これも満足。
 観るスポーツとしては、カヌー。スラロームもスプリントも。カヤックもカナディアンも、男子も女子も。この競技は日本と世界頂点とはだいぶ差があるので、満遍なく各国選手を応援した。
 ちょいと覗いてみたのは、セイリング(ヨット)と自転車と、陸上競技のほんの一部。あとは、それほど。