一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

暢気時代

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広津和郎(1891~1968)

 

 谷崎精二先生を囲むお祝いの宴。受付には、英文科の大学院生らが、お客様ご案内係や名簿係として駆り出されていた。会が始まって、ようやく受付が手すきになったころ、老人が一人、入口に到着した。
 「あっ、広津さんだ」
 大学院生は谷崎門下で、日頃イギリスの小説家を調べていた。しかし文学読者としては、広津和郎を愛読していた。その広津が今夜はご来駕あるやもしれぬとの事前情報に、ひそかに胸躍らせていたのだ。ご本人をお見かけした経験は、まだなかった。運が良ければ、谷崎先生の弟子の何某ですと、ご挨拶の機会があるかもしれない。

 「あのぅ、広津先生、よろしければ外套をお預かり、いたしましょうか?」
 受付を素通りするように、足早に会場へ向いかけていた広津和郎が立止って、つッと振返り、眼が合った。
 ――その時の眼。怖かったねぇ。キッ! 君は何者かっ、と詰問してくる感じだ。これが作家の眼というもんかと、背筋に震えが来るようだった。作品や文章から受ける、聡明で包容力のある印象とは、まるで違うんだ。足が竦んでしまってね、ご挨拶も名乗ることも、できなかった。あれは、怖かったよ。

 その大学院生、のちの守屋富生先生から、私が教えを授かったのは、先生ご定年のほんの数年前だから、さて、谷崎祝賀会から何十年経っていたことになるんだろうか。その晩のお噺は、酒肴を間に幾度も伺った。
 守屋先生は、ご研究としては二十世紀初頭のイギリス作家アーノルド・ベネットを、生涯にわたり愛された。もともとフランスやアメリカと比べると渋いイギリス近現代文学のうちでも、ことに地味な大家である。
 ――ベネットは野暮天の田舎者でね。正直だが、いっこうに垢抜けないんだ。そこがいゝんだ。英国の田山花袋だね。

 そして盃をお手にされると、ご専門分野についてはめったに語られず、恩師谷崎精二先生や愛読してやまぬ広津和郎を、えんえんと愉し気に語るのを常とされた。井伏鱒二小沼丹三浦哲郎についても、繰返し語られた。
 ――谷崎先生は神経が細くてねぇ、踏切で信号機がカンカン鳴ってるでしょ。すると二十メートルも手前で、あーッとか云ってしゃがみ込んじゃうんだ。あんな神経をして、同人誌『奇蹟』のころ、よくもまあ広津さんや葛西善藏みたいな豪傑たちと渡り合えたもんだねえ。
 ――小沼さんはどうして、あゝも短くさっぱりと書けてしまうんだろうか。作家というものは、じつに不思議だ。井伏さんも、そういうとこ、あるでしょ。
 ――三浦さんは真面目そうにしているくせに、今「日経」に連載してるやつ、凄まじくエロチックでねえ。あんがい隅に置けないんだ。
 さらにきこし召すと、広津和郎の眼に出逢って、大隈会館の受付に立ち竦んだ噺となる。幾度伺っても、また面白かった。

 この二十年で、大学は急速に変ってきた。世界的傾向かお国の方針か、歴史的必然か社会からの要請か、私は知らない。だが今後の大学では、私なんぞは生きてゆけない。
 守屋富生先生をとおして、谷崎精二先生も恩師であるかのような気分に、勝手になっている。窪田章一郎先生(和歌史)をとおして、窪田空穂も恩師であるかのようだ。暉峻康隆先生(江戸文学)をとおして、山口剛も恩師であるかのようだ。小杉一雄先生(東洋美術史・文様史)をとおして、会津八一も恩師であるかのようだ。
 むろん勝手な思い込みである。こんな無手勝流で暢気な学徒は、今の大学に居場所があるはずもない。

 守屋富生先生は、ご定年退職にさいして、ご処分されるべきご蔵書を、形見分けなどとおっしゃって、後輩に分け与えられた。誰に何を授けるか、かなりお考えになられたふしがあった。私は抱月先生の評論集と、伊藤信吉の詩論との二冊を、頂戴した。