一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

長いあいだ

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 夏のうちに、閉店のお報せが出た。その後、店仕舞につき在庫売り尽しのセール期間があり、ついにシャッターが下りた。

 刃物屋さんで研ぎ師さんだった。鍋釜ヤカンを商うばかりか、修理もしてもらえた。鎌・鍬・スコップでも、カンナ・金づち・ノコギリでも、金網や金属製の篩でも。台所用具から農具・工具・大工道具まで。二間間口の小なりの店ながら、奥が案外深く、金物なら何でも、用が足りた。

 拙宅がこの町に引越してきてほどなくから、お世話になった。昭和三十年代である。
むろんスーパーだのコンビニだのは影も形も、そんな言葉さえもなく、ましてやホームセンターなんて、想像もつかぬ時代だった。
 「長い間」と「お引き立て」のあいだの、わずかの「間」が、じつにじつに多くを語り掛けてくる。万感の想いが湧いてしかたない。銀行が混んでてね、長い間待たされちゃった、なんぞの「長い間」とは、二桁も三桁も違うのである。

 ほれ、サンロードがまだ川だった頃、ひどい台風で、水が上った年があったでしょう。お店まで水が来ましたよね。大変でしたね。
 眼と鼻の先で、火が出たこともありましたね。さいわい延焼は防がれ、大火事にはならずに済みましたけど、あの時は、驚きましたね。

 包丁も鎌も、鰹節削りのカンナの刃も、お世話になった。裁ち鋏がお世話になったこともある。

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 旧制女学校の仕込みだろうか、母は裁縫や洗い張りや、障子張替えや椅子・引出しの修繕まで、自分でやる人だった。住環境の変化にともなって、場所がなくなり機会がなくなり、晩年はわずかに編み物だけになったが。
 若いころ裁縫に使っていた裁ち鋏を、身の回り普段使いの万能鋏として活用していた。鋏にしてみれば、第二のご奉公である。

 こんな使いかたなら、ほどほどの切れ味で足りるから、研ぎに出すほどのこともあるまいとしていたが、どうした風の吹き回しか、あるとき研ぎに出した。すると鋏は、眼も覚めるほどの切れ味となって、帰ってきた。
 母は、なんだか、もったいないようだねぇ、を連発していた。じつはもったいなかったのではなく、裁縫をしない暮しが残念だったのだろうと思う。

 その鋏だが、この二十年は私の手近に常にいて、宅配便の紐を切ったり、封筒を開けたり、反故原稿をメモ用紙大に裂いたり、けっこう忙しくしている。忙しくはあるが、こいつの潜在能力からすれば、取るにも足らず張合いもない、老いの軽作業に過ぎなかろう。
 むろん、私は研ぎに出したりも、していない。