一人のウグイス嬢の指が、しずかにマイクのスウィッチをオフにした。
山中美和子さんが後楽園球場で初めてマイクの前に腰掛けたのは、一九七七年のこと。長嶋茂雄はすでに現役を退いていたが、王貞治はまだ現役だった。「四番、ファースト王、背番号一」と、場内アナウンスなさったかたである。
長嶋監督、王監督、原監督をすべてご覧になってきた。後楽園球場が役割を了えて、東京ドームに換った初日を、ご存じだ。
私なんぞは知る由もなかったが、玉川球場でのイースタン・リーグ試合の放送もなさっていたそうな。若手のスポーツ記者たちは、風と土埃舞う玉川球場での取材で、山中さんから昔のジャイアンツについて伺うのが、大好きだったという。
場内アナウンス一筋に四十五年とは、途方もない凄さだ。
めったにないことだが、私ごときにも、スピーチでやむなく自己紹介せねばならぬ場合がある。「恥かしながらこの齢まで、正業というものを持たぬまゝで参りました、半端者でございます」と申しあげる。
二十五歳までは無為徒食。広告と零細出版で三十年、大学の非常勤で二十三年。複数大学掛持ちもあったから、延べ勘定だと大学は四十二年。出版と大学の掛持ち期間(ダブリ)を差っぴいて、これで七十一歳。その間ずっと、売れっ子だったことが一度もない文筆業。まことに怪しげな複数の草鞋を履き続けてきた。
十月二十三日、巨人対ヤクルト。試合終了しても、場内アナウンスは了らなかったことだろう。「退場口が混み合います」だの「お気をつけてお帰りください」だの「次の試合は」だの「またのお越しを」だのと。
ダッグアウトに選手の姿はとうになく、スタンドの人影も残り少なくなって、グラウンドキーパーやスタンド清掃員たちが動き始めている。
そんな時、山中美和子さんはブースで一人、そっとマイクのスウィッチを切った。どんなお気持ちだったことだろうか。
あ~ァ、それに引きかえこの俺は、という想いが湧いてくるのを、如何ともしがたい。
昨日の栗ごはんの今日だから、さすがにスーパーで栗には手が伸びず、今日の間食は、栗アンドーナツ。