一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

我流

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これが、

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こうなる。

 本日も好天。昨日の残り作業。

 鳥たちのしわざで拙宅に来着したネズミモチは、すべからく招かれざる客かといえばそうでもなく、歓迎され共存する樹がひと株だけある。たまたま玄関前の右脇に生立ったため、門前を守る仁王のようで、これはこれでと容認することになった。
 が、とにかく生命力が強い。年に数回は、剪定というと大袈裟だが、徒長枝の刈込みや混雑葉の間引きが欠かせない。

 ところが不見識な素人の哀しさ。年を追うごとに、樹形が悪くなってゆく。どの枝を詰め、どの枝を残すかの、判断がつかないのだ。とりあえず病虫害対策というか、繁りの内側に風通しが好くなるようにと心掛けて、密集を解除してゆくほかない。また残す枝の先に小さな葉が二枚着いている形で、鋏を入れていくほかはない。

 樹の種類によって、天然自然本来の、いわば理想的樹形というものが異なるから、樹種ごとに、ちょいとした枝詰めのコツがあるにちがいない。今どきのことだ。検索すれば知れるのだろう。ユーチューブには、指南動画も上っているのかもしれない。
 が、面倒臭い。それに、素人にしては巧いだの、勘所を知っているだのと、人から云われるのも、自分でさよう思うのも、気恥かしい。
 自分の持場以外では、わきまえのないド素人としてあることが、好ましい生きかたなのだと思う。

 七八年前になろうか、桜とカリンの世話をしてくださった親方が、最終日に少し時間が余っちまったとおっしゃって、このネズミモチの枝を摘んでくださった年があった。
 仕上りを一見して魂消た。床屋できれいに刈上げてきたばかりの頭髪もかくや。余分なひと枝もないサッパリした姿で、各枝先に二枚か三枚の葉が着いたきりだ。
 なるほど、かようにすべきものかと感嘆しきり。しばらく眺め入ったものだった。しかし基礎のない哀しさ。眺め入ったくらいでは、次の季節から模倣しようと試みたものの、なんにも模倣できなかった。
 で、今も乱暴な我流で、繁茂する枝を除去している。

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本日の刈込みぶん。背後に昨日のゴミ収穫・ご婦人用雨傘。

 摘んだ枝葉は、例によって数日積んでおく。水分を飛ばして生木っぽさを抜いてからの処理である。
 昨日フキの群棲の根方から拾得したご婦人用雨傘が、偶然、背後に写り込んだ。傘のゴミは閉口だ。布部分を骨から外して、布部分は刻んで一般家庭ごみへ。骨部分は何本か束ねて、燃えないゴミ行きである。あんがい面倒だ。

 

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昨日の刈込みぶん。

 この陽気のおかげで、昨日のぶんは早くもシンナリしてきた。もう一両日といったところか。それ以上長く積んでおくと、ダンゴムシにとって絶好の棲家となってしまう。こちらが処理するさいに、大量のダンゴムシたちが慌てふためいて千々に逃げ惑うパニック状態を引起す。気の毒だ。
 まだ起床して三時間ほど。今日も、それほど悪い日でもなさそうだ。

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私の影。意味もなく。