一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

への字

「鮭づくし」(越後村上の千年鮭 きっかわ 謹製)

 塩引き鮭で名高い新潟県村上市武家料理・町方料理・漁師料理、今に伝わる鮭料理は百種類を超えるという。
 創業は寛永三年というから、大坂夏の陣から十年少々しか経っていない。政都を江戸に移したとはいえ、商業・文化の中心はまだ上方だ。海産物は日持ち加工されて船荷となり、能登・若狭を廻って上方へと運ばれていったのだったろう。

 この季節はどうしても、ありがたい頂戴ものへのお礼日記が増えてしまう。東京で塵ひと粒のように生きている身には、とうてい眼にもつかず口に入るわけもなき県内の逸品を、柏崎の従兄が贈ってくださる。私としては、年に一度の贅沢ができる。
 温厚にして思慮深き人柄の彼は、従兄弟間シンジケートの中心人物、いわば惣領と申すべき人だ。手堅く地方公務員として勤め上げながら、先祖伝来の田畑で小規模農業。定年後も地域の連絡や防災の世話役として人望を集め、自家消費程度の野菜を栽培し続けてきた。
 直近の来簡によると、健康と気晴らしと交友を兼ねて、週二回のボーリング教室へ通い始めたという。ご本人からは叱られるかもしれぬが、私ごときから眺めると、理想郷の暮しとすら思える。

 だが陰へ回ってのご苦労は、ひと通りではなかったことだろう。新潟地震では土蔵が傾いて、現代の建築技術では修復不可能という事件にも見舞われた。
 樹齢なん年とも知れぬ老大木たちを、いく株も伐採・整理しなければならないこともあった。
 家の内だけではない。市内が大きく様変りする時代に際会した。原発である。世界一規模の原発が地元にやってくるということで、地域も民情も四分五裂。大変な騒ぎだった。「わが郷土の誇りは良寛さま」などと、暢気なことばかりは云っていられなかったに違いない。さすがに彼も、温厚でばかりはいられなかったことだろう。

 だがさような人柄だし、奥さまも無類の働き者だしするから、お子たちもそれぞれ健やかに巣立ってゆかれ、なかには遠隔地に住む者あっても、盆暮れの一族再会のおりなど、たいした賑わいとなるようだ。つまりあらゆる点で、私とは対照的な人物だ。
 これも直近の来簡によれば、東京に片づいたご次女のご長女というから、ご本人の孫娘さんになろうが、「貴殿の後輩となりました」とのこと。早稲田に入学したらしい。

 お孫さんでなく、娘さんだったらねぇ。いや、せめて十年前だったらねぇ。今では、存じよりの教授連中はほとんど退いてしまったし、大学周辺の飲食店ほかの名物店主たちも、すべからく代替りしてしまった。取次げる方面など、なにひとつ残っていない。古本屋の親爺数人が、わずかに健在でいるばかりだ。
 もとより、きちんとしたご両親おありの娘さんだろうから、私ごときがお役に立てようはずもないのだけれども。

 久かたぶりに、大隈侯の表情を眺める。これほどまでに、口をへの字に結んでいたんだっけかなあ。学生時分には、これほどまでとは思っていなかった記憶がある。侯はこのとき、何歳だったのだろうか、などと想いながら、ついつい缶ビールのプルを引いてしまう。
 さて、なにからいたゞくかと考えたのは、ほんの束の間に過ぎない。撮影を待たずに、味噌漬を開封してしまった。