一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

後遺症



 赤・青・白(由来は動脈血・静脈血・包帯)が上空に向けて動いている。斜め三色のサインポールが、遠眼から視ても明らかに回っているのだ。散歩予定は急遽とりやめだ。散髪日に切換える。

 ご先代マスターの時代から、半世紀近くもお世話になってきた理髪店さんのサインポールが、ここ三か月あまり動きを停めていた。ガラス扉の内側に「体調不良につき、しばらく休業いたします」との控えめな貼紙が貼ってあるだけで、中には人の気配は感じられなかった。
 銭湯への道すがらに、つまり日暮れ後に視るだけでは事態がはっきり掴めないとも考え、散歩をかねて午前中にも昼下りにも、前を通ってみた。様子に変りはなかった。

 私よりはずっとお若いマスターと、私より十歳ちかく姉さんであるご母堂とのお二人暮しだ。ご母堂はお齢相応に持病を抱えてはおられるものの、よく気を付けておられて定期の病院通いも欠かさず、心身の均衡を保たれて、日ごろ明るくにこやかに過しておられる。マスターは気さくで無類の話し上手だ。しかも本職のみならずなんにでも器用だ。休日にはホームセンターから仕入れた材料や道具で、家具や建具だろうが家電だろうが、自分で修理してしまう。躰もいたって丈夫そうだ。つまり「体調不良」との貼紙を見せられたところで、私としては不運のほどを想像しづらいのだった。

 「どうしてたのよお、マスター?」
 ここは無遠慮・無神経に徹するに限ると思い、扉を引開けると同時に、大声を発してみた。マスターは苦笑いのような、照れ笑いのような、奇妙な笑顔を見せた。
 脳梗塞の発作に見舞われたという。たまたま来店中の客がなく、独りで店にいたとき、オヤッ、どうしたんだろうと思い、椅子に腰を降ろした。その腰が椅子に留まれなくて、滑り台を下るかのように、ズルッと前へ滑り落ちて、床に尻餅を搗いた恰好になってしまった。すぐさま立上ろうとしてみたものの、両膝から下に力が籠らず、立上れなかった。
 これまでも、動きだした瞬間に立ちくらみのめまいに襲われたことが、いく度かあった。おとなしくじっとして、深呼吸を繰返すうちに、いつも症状は過ぎ去った。今回もそれかと思い、しばらく床に座っていようと考えた。
 おり好く買物から戻ったばかりのご母堂が奥におられて、店に顔をお出しになり、異変に気付いた。
 「大丈夫だって。しばらくこうして様子を看ていりゃあ」
 「大丈夫なもんか、おまえ。すぐ救急車呼ばなきゃあ」
 ご母堂も、かなり前のことだが、発作経験者だった。ピンと来るものがあったのだろう。ものものしい救急車騒ぎになってしまったが、早期通報・早期治療開始が二次発作を防ぎ、結果としては幸いだった。ご母堂の大手柄である。

 絶対安静にして、血圧と血糖値を下げる。数値を診て、ここぞというタイミングで、カテーテル治療を受けた。内股の付根から血管にカテーテルを挿入し、電子機器で管理誘導しながら、血管伝いに先端を患部にまで到達させ、血栓を溶かした。
 天才投手を称して「地肩が強い」と褒めることがあるが、マスターは地躰の強い人だった。大掛りな治療が成功して、リハビリ治療の段階に移ってからは、目覚ましい回復力を示した。病棟に仲間もでき、空き時間があれば指先のリハビリを兼ねてジェンガに興じた。少し歩けるようになってからは、病院の階下にある喫茶ルームへ珈琲を飲みに行きたがったという。気の合う看護師さんもできたらしいが、看護師さんたちを手こずらせる、なかなかの不良患者だったと見える。

 「なにかの拍子にね、まだ左手が少し変なんですよ」
 日常生活に支障は生じなくとも、熟練の手わざを駆使するさいには、左右の均衡に微妙な違和感が生じるらしい。
 「コロナで、顔剃りはご辞退ってことになってたのが解禁されて、床屋はさてこれからってとこだったんですが、あたしはもうしばらく、顔はお断りしようかと思ってるんですよ」
 「働き過ぎだよマスター、そろそろ老人の仲間入りなんだから、少しはスローダウンも覚えろっていう、神様のお告げさ」
 この病気を語るだれもが異口同音に口を揃える台詞を、私も云ってみた。

 丸刈りはなんなく了って、ご母堂が冷たい麦茶と水羊羹を出してくださった。三人三様に、同じ発作の経験者だ。嘆いてるんだか自慢してるんだか、わが発作と治療の想い出噺には尽きるところがない。三人ともが、こんな話題を笑顔で語り合えるようになって、幸いだった。
 でもねマスター、後遺症ってやつは姿を消したように見えても、気温や気圧の急激な変化や、季節の変り目なんぞに、ふいに出てきたりしてねえ、なかなか頑固なもんさ。健康なお人には感じられなくとも、俺には判るんだ。後遺症をまったく意識しなくなって、ステッキを手放すまでに、俺は十年かかりましたよ。
 むろんそんな台詞は、マスターとご母堂の前では口にしなかったけれども。