一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

貧知の自覚


 文芸批評家としての入江隆則に、注意を払っていた時期があった。

 第一評論集『幻想のかなたに』に広津柳浪論の力篇が収録されてあったのに驚いた。かような入口から登場する批評家もあるのか、という感じだった。以後の批評文にも教えられた。『新井白石 闘いの肖像』からはありがたい啓蒙をいだだいた。D・H・ロレンスについてもだ。
 だが批評文のなかには、これなら江藤淳でいいや、あるいは桶谷秀昭のほうがと感じさせられるものもあって、この世代の批評家のお一人なのだなと記憶した。

 ふたたび入江隆則に刮目させられたのは『敗者の戦後』が出たときである。敗戦後の日独比較よりは、第二次大戦敗戦後日本と第一次大戦敗戦後のドイツとを比較検討すべきだとの提言に、眼を開かされた。説明されてみればごもっともながら、私の幼稚な固定観念にとっては、意表を突く立論だった。比較文化、比較文明、文化人類学的な考察にさいしては、時間のカーソルを平行移動させながら考察するという技法を学んだのである。
 余談ながら、「世紀末的」なんぞというときにも、日本と西欧の十九世紀末同士を較べても駄目で、西欧近代文学・芸術にとっては十八世紀世紀末こそ重要だと、吉田健一『ヨオロッパの世紀末』から教わったときにも、似た想いがしたもんだ。

 『敗者の戦後』以降の入江隆則は文芸批評家を廃業して、文明史家に転職したかの様相を呈した。『文明の生態私感』以下の梅棹忠夫を読むように、当方の頭にある平べったい世界地図が立体的に立ちあがってくる悦びは感じたものの、私にとっては高尚な教養に属する世界となった。ましてや保守派の有力イデオローグと目される教授に対しては、私ごときは読者の資格すらないように思えた。
 生立ちから自己形成期を赤裸々に語った『告白』だけは残そうかとも考えたが、それに教えられて今から心を入換えたところで、手遅れと断念した。


 柄谷行人の良い読者だったことは、一度もない。初期の夏目漱石論ほかの文芸評論には、おおいに教えられた。が、幅広い知識と鋭い舌鋒とに、私はほどなく置いてけぼりを食う羽目に陥った。
 問題は私にあって、ある時期から文体も論理も、言葉にまつわる一切は人間味の表現であって、思弁の正しさが究極ではないと考えるにいたってしまった。文章を科学的に分析しない悪癖に染まってしまったとも云える。空理空論を見破って退ける経験は磨いたが、厳密な論考に着き従ってゆく忍耐力を失ってしまった。要するに怠け者読者になり下ったのである。

 たまたま読んだ柄谷行人著作には、つねに感心させられ、いつも教えられた。が、あァ面白かったと読了した記憶が、ほとんどない。私にとっては分不相応な諸作なのだろう。
 対談集『思考のパラドックス』だけは手元に残そうかとも思った。数ある対談相手のなかに、森敦と田川建三の名があるからだ。森敦『意味の変容』は私にとっても重要な本で、一見とっつきにくいこの本の刊行時に、いち早く値打ちを感知して強く推奨したのが柄谷行人だったとは、はっきり記憶している。また田川建三『イエスという男』『書物としての聖書』ほかも私には重要な本で、読解ができるうちにもう一度くらいは再読したい本だ。
 しかし森敦に対しても田川建三に対しても、柄谷行人はしょせん私なんぞの理解及ばぬ関心を寄せているのかもしれない。だいいち、せっかく逸話・うら噺・こぼれ噺が聴けるかもしれぬ対談集に『思考のパラドックス』という、なんとまあ大仰なタイトルを振るセンスに、私はとうていついて行けそうもない。

 ともに著作を通しての学恩ある論客ながら、私は不肖の読者だった。わが知性の貧弱さを気付かせてくれた、恩ある著作群とも云える。
 入江隆則柄谷行人とを、古書肆に出す。