一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

買出し


 野菜類の買出しに出たかった。ただそれだけの、軽い用足しだったのだが。

 昨夜の小雨は上っている。好い天気だ。玄関マットはまだ湿っている。わが小さき草ぐさに眼を凝らすと、ごく微小な水滴が葉に留まっていて、午前の陽にきらめいている。雨の名残だ。
 まず信用金庫へ。わがメインバンクだ。とはいえ伺う機会はめったにないから、機械に向って、怠けていたぶんの通帳記入を済ませる。年金やら、些細な仕事の手間賃やら、四か月分の記入だ。
 郵便局へと移動。ここでも機械に向って通帳記入と、私としては多額の金を引出す。生活費が底を突いたのだ。駅前へと移動し、今でも取引きが残っている唯一の市中銀行である三菱UFJ の ATM へ。ゆうちょ銀行から引出した金を全額入金する。そのうえで、割戻すように五万円を引出す。当座の生活費だ。だったら初めから、ゆうちょ引出し額マイナス五万円を入金すればという考えを、私は採らない。金額の動きをすべて通帳に残したい。

 口座は代々木上原支店にある。二十七歳時分に開設した。当時の勤務先の社屋近所だった銀行支店に、給料の送金先として社命で口座開設させられたのだった。退職しても、そのまま私用に取引きし続けてきた。金融界の合併戦争の時代があって、銀行名が二度も変った。が、解約せよとは、どこからもだれからも云われなかったから、そのままにして今日にいたった。その会社を退職して四十年近くにもなる。むろんその間に、代々木上原駅に下車したこともない。
 今では生活費を引出したり、クレジットカード決済した金額の引落しに充てたり、つまり私の元財布の役目をさせている。今回その元財布の残高すら尽きたので、大元の日ごろ睡眠財布から、ある程度まとまった金額を移したというわけだ。

 ようやく紙入れに紙幣が入った。川口青果店にて野菜の買出しだ。いつもの月並基本野菜の補充。あい次いで切らしたのを辛抱してやりくりしてきたから、私にしてはまとめ買いだ。つまりはまたぞろ揚げびたしを作り、レトルトカレー節約のためのカレースープを作ることとなりそうだ。
 揚げびたしの相棒に鶏肉はやってみたから、次は青魚と思ったものの、適当なものが視当らない。冷凍焼売でやってみようかと思いついたが、サイズと個数が気に入らない。サミットストアの棚前を往ったり来たりした。少し冒険だが小玉がんもを使ってみるか。予想外のヒラメキだ。かなりの確率で失敗する。けれども面白そうではある。

 
 わが町に一棟だけ、場違いな高層マンションが建っている。入口の敷石にほんの半畳敷きていどの土面が残され、植え込まれたたった一株の花木が、まことに上品な花を咲かせている。
 買物袋を提げた私の前を、さっそうと歩くご婦人がある。ほっそりした姿の背筋は垂直で、中間色のセーターにスラックス。野球帽に似たキャップを被っている。お洒落のようなラフのような、スポーティーのような余裕あり過ぎのような、今風のヤングミセスででもあろうか。当りまえのように躊躇もなく、高層マンションのガラス扉を押して入った。
 どういうかたがお住いなんだろうと、日ごろから不思議でならなかった私は、覗き趣味ではないが、つい後姿を眼で追ってしまった。スチール壁のごとき装置の押しボタンに向っている。どうやら外扉と内扉との間が安全確認空間となっているらしい。暗証番号か部屋番号かを入力してから、内扉を押すのだろう。

 駅周辺一帯では、再開発計画が進んでいるらしい。半世紀以上にわたって私が馴染んできた商店街は、十年後にはがらりと変貌をとげる公算が強いとのことだ。現時点でわずか一棟の高層マンションは、さしづめ再開発の先兵といったところなのだろうか。


 拙宅へ戻る。ちっぽけな草ぐさから、雨のしずくの名残は消えていた。わずかの時間に、どんどん乾くもんだ。
 見事に手入れされたあの立派な花木よりも、拙宅のそれぞれ素性も知れぬ駄木駄草連中のほうが、植物としてはまともであり幸福なのではないだろうか。いや、そんなふうに思うのは、時代遅れの貧しき者のひがみだろうか。