
ふと思い立って、本日は豪華買い食い。天丼である。
味噌汁の実には、茹でて小分け冷凍しておいたモロヘイヤの小玉をひとつ解凍した。香の物には、浅漬け成った茄子。いずれも大北君からの頂戴物だ。
なにをふと思い立ったかと申せば、はて天丼のタレの味とはどういうもんだったっけ、ということだった。うまく思い出せぬ自分に気づいたのである。むろん天丼の味そのものを、舌が記憶しないわけではないが。
蕎麦や素麺の浸けつゆを作る。温かい種物蕎麦やうどんを作る。天つゆを作る。酢の物の三杯酢を作る。揚げびたしの漬け汁を作る、その他。
味醂を使わぬようになってしまった私にとっては、すべての基礎が水と醤油と酒との配合問題だ。あとは砂糖を加えるのだったり、酢を差すのだったり、逆に酒を抜くのだったり、水ではなく出汁で割るのだったり、おろし生姜なり柚子胡椒でアクセントを付けるのだったり、それぞれ異なるけれども、つまりはエイヤッというヤマ勘目分量の配合問題である。
あまりに馴れっこになってしまい、なかば無意識の作業のなかで勘違いを犯したりする。改めて考え直してみようとして、そもそもの始めが判らなくなってしまったりもする。かりに失敗したところで、どうせ食すのは自分独りだという気楽さが、余計いけない。
はて、天つゆの味ってどういうんだったっけと、ふいに思ってしまったわけだ。
専門職人さんの揚げたて天ぷらを口にしたのは、遠い昔のこと。まだネクタイを締めて日々を過していたころだ。ベストつきスリーピーススーツの胸ポケットに、チーフが入っていた時分だ。
勤め人でなくなってからは、チェーン店「てんや」にずいぶんお世話になった。池袋・赤坂・高円寺・西荻窪、まだまだあったろう。出先で食事時となって、有名チェーン店が軒を並べる街だったりしたら、牛丼屋でもラーメン屋でもなく「てんや」の暖簾を分けたものだった。
しかしそれもしなくなって、もうなん年になるだろうか。蕎麦つゆ・素麺つゆとはおおいに異なる天つゆ独特の甘味を、ふいに思い出したくなったわけだ。天つゆより天丼用はさらに甘めだったか、どうだったか。
サミットストアにて、五品入りを謳った天丼を買ってみた。海老二本、さつま芋二個、野菜三種各一個の、五品七本載せ398円(税抜き)である。
台所で温め直し、盛り直して一食に及んだ。上手くはあった。が、たいして参考にはならなかった。思えば当然である。
つねの天つゆで弁当を仕立てようものなら、時間が経って冷めるうちに天つゆは容器の底に通ってしまい、種に絡んだままでいてはくれまい。弁当用の天つゆにはトロみというか強い粘性が不可欠だ。客の手に届くまで、種と共にあってくれなければならぬ。そんなこと先刻承知してたのにと、自分のうっかり加減に呆れた。
気をとり直して、種から衣を剥さんばかりにして、衣に沁みついたようになっている粘性天つゆの味を、確かめてみた。が、どうにも判らない。味の方向性からして異なるような気がする。天ぷら屋の天つゆと天丼弁当のタレとは、いずれがより美味かという問題ではなく、はなから別物である。
サミットストアの名誉のために、大急ぎで申し添えるが、サミットストアはバックヤードの厨房にて自店製造の店だ。本部の共通食品センターから搬入した商品ではない。弁当はじめ惣菜類もおにぎり類も、おしなべて美味い。天丼だって、満足して完食したのである。たった一点、本日私が勉強しようとした天つゆとは、別ものだったというに過ぎない。
謎は、謎のままに残された。それどころか、天ぷら屋の天丼のタレと天丼弁当のタレとの根本的相違という、新たな謎まで発生してしまった。なまじ些細な謎を解こうなんぞと発心してしまったがために、より巨きな謎に取囲まれてしまうという、フランツ・カフカ的世界の日常ミニチュア版である。