一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

おありがとうござい

 

 生れて初めて、JCB 商品券なるものを使わせていただく。

 都民税の納税額から、貧困家庭というものが容易に割出せるのだろう。ある日東京都からの封書が届いた。諸物価高騰対策としての「臨時くらし応援事業」だという。金をくださるという。さすがに現金ではなく、いくつかの方式から選択できるアンケート回答が求められていた。
 いずれも私にとっては縁も経験もない方式だ。もっとも簡明で単純な方式に見えたので、「JCB 商品券にて」に丸印を記入して返送しておいた。一か月前だったろうか、二か月前だったろうか。はっきり憶えていない。
 本日、ゆうパック便が届いた。はて、どなたがなにをお贈りくだされたものかと不思議に思いながら、受取り伝票に印鑑を捺した。落着いてから差出人を確認し、開封してみて、あぁアレ本当に来たんだと、記憶が蘇った。額面一千円の商品券が十枚封入されてあった。

 商品券の裏面には、全国をブロック別に分けた買物できる店の一覧表が印刷されてある。グレーのインクで、フリガナサイズの文字だ。漢字すらもである。とてもじゃないが、老眼鏡と拡大鏡とをダブル使用せねば読めるものではない。
 どうやら私は一覧表の中から、「全国」と「関東」との枠を眺めればよろしいらしい。どれどれ。
 一流百貨店が漏れなく並んでいる。丸井、西友、パルコ、イトーヨーカ堂がある。ヨドバシカメラビックカメラ、ヤマダデンキ、ケーズデンキがある。ユニクロもある。「日本銀行」とあるから、国債を買う足しにもせよというのかと思ったら、「日本旅行」だった。

 この齢まで生きてきたんだ。ほとんどは知ってる店だ。たとえ買物をしたことがなくとも、いかなる店かとの想像はつく。が、この齢になって、日常的に買物をしている店は一軒も視当らない。ビッグエーもサミットストアも、ダイソードン・キホーテもない。もちろん川口青果店もない。
 しかし東京都の思惑としては「貧民の家計に愛の手を」が目途だろうから、そして地域の需要喚起が第二目途だろうから、恵んでいただいた貧民としては近場で早急に消費するのが協力的というものだろう。
 かといって、である。豆腐や竹輪やイワシ缶を、牛乳やカット若布やシソ振りかけ「ゆかり」を、まさか伊勢丹高島屋で買うわけにもゆくまい。貧しいとはいかなる状態を指すのかという、にわかに高尚な議論となる。

 とはいえ月が明ければ、年に一度の歳暮商戦が開幕する。社会生活および交友をほとんど断った暮しをしてはいても、儀礼的形式ではないほんのわずかの交友は残り続けている。たぶん今年も東武百貨店を使わせていただくことになる。大助かりだ。東京都の旦那さま、おありがとうござい。


 さきごろ思い立って、線香立ての灰を振るって調整した。ここ数日は白砂のごとくなめらかな灰面に線香を立てている。つね日ごろから三本の線香を立ててきた。仏壇には三基の位牌が立ててある。両親とあと一基は「先祖累代の霊位」ということになっている。
 じつは線香三本の意味は、位牌三基に対応しているわけではない。いや、「先祖累代」に含まれるとも云えようが、なかで特別重要な一人に手向ける線香と思っている。わが妹の霊位である。母には母の、生涯口に出さなかった悲しみがあった。

 どなたにもご経験おありだろうが、悪戦苦闘の齢ごろには、いっそこのままと決断寸前にまでにじり寄る瞬間というものがあるもんだ。多くの場合、思い留まって引返してくる。そうやって経験というものを、一つまたひとつと増やしてくるのがふつうだ。
 思い留まる力もしくはきっかけになった要素は、私の場合には「アタシのぶんまで」と、踏みとどまることを懇願してくれる声に、いく度か救われたことがあった。その時かぎりで忘れがちに過してきた声だったが、この齢ともなると、あの声が聞えたおかげでと思い返すことも少なくない。三本目の線香である。
 じつに些細な家事に過ぎなかったが、数日前に線香立てを改めておいて、ほんとうに好かった。


 このところ雑事が溜ってしまって、暢気に草むしりして過す日がやって来ない。急に秋めいてきた陽気と、適度な降雨によって、雑草は跋扈のかぎりを尽しはじめている。
 そうした雑踏のなかで、花どきを了えた彼岸花たちも冬越しの支度に急だ。日を追うごとに葉を伸ばして、球根に蓄える養分の蓄積に余念がない。つい先月には見事な花を咲かせた球根群も、今年は花芽を挙げずに自重して、来年を期して防御に回った球根群も、一様に競って葉を伸ばしあっている。
 こんなふうにして、この連中は命を永らえさせてゆくのだ。