
眠気も吹っとぶ帰り途だった。
「選評」原稿を書いて、夜が明けた。文芸雑誌が主催する新人賞の選考会が催されたのは昨年末だった。今日はその報告文の〆切である。
難行ではない。候補作についての記憶は消えておらず、この間おりに触れて思い返しては自分の感想を反芻点検してきた。考えはしだいに凝縮され、言葉として姿を現してきてもいた。あとは編集部から指示された文字数に整序するだけのことだ。だったらもっと早く、前倒しに仕事を片づけてはどうか。もっともではあるが、文章を書くには潮時というものがある。固形物を造るというよりは、ライブステージを務めるというに似ている。
教員時代にはしばしば「講義というものはライブだから」と云い放って、一部のヒンシュクを買った。出たとこ勝負のいい加減な奴と、思われたのだろう。冗談じゃない。当方は本気だ。ライブでなけりゃ学生諸君に聴いてはもらえない。伝わるもんじゃない。どこかの錬金術試験場でこねくりあげた文言の塊を、そのまま持ってきて披露したところで、若者は退屈するだけだ。
書くことだって似ている。原稿に向う筆者のライブ感が伝わらなければ、読者にお読みいただけるもんじゃない。
ウェブ送稿は別途するとしても、編集部へお返ししなければならぬ資料もあるから、文字稿もお手渡しいたそうかと、睡眠はあと回しにして、出かけることにした。
馴染の雪華堂に寄る。助手さんだの事務員さんだの、編集部はご婦人がたや若者たちの寄合場である。今年最初の訪問に、茶菓子の手土産くらいは必要だろう。栗をチョコレートで包んだお奨めの季節商品が出ていた。なるほど美味そうだ。だがお遣いものだけにして、自分用は我慢した。
愛想の好い女性店員さんが、いつもありがとうございます、今年もどうか、と声をかけてくださる。恐縮だ。
「ちょっと間が空きましたね。ちょくちょくお立寄りくださいませ」
「お言葉ありがたいけど、編集部が呼んでくれないことには」
「よろしいじゃありませんか。お散歩ででも、お立寄りくださいませ」
ちょい待ち。散歩途中にひょいと雪華堂へ寄れるほど、裕福な暮しをしているわけじゃない。ビッグエーの駄菓子詰合せ袋で十分だ。帰れば冷蔵庫に、茹で小豆の袋だって冷えている。
挨拶と提出と返却と、最後に手土産を渡すだけだから、用件はものの五分足らずで済んだ。入構証を返しに守衛所へ寄ると、今日はまたずいぶんお早いですねと、驚かれてしまった。守衛所詰めや立哨の連中と、こんなに軽口を叩き合う定年退職者が、他にもいらっしゃるだろうか。
さて、帰って寝ようとは思ったが、雪華堂でも守衛所でも云われたとおり、いくらか間があいたし本年初回でもあるから、江古田の街を少し歩いてみる気になった。
セリエ(百均ショップ)に立寄った。源ちゃんメモ(買物メモ)に、在庫切れの雑貨が数点あったからである。が、セリエはお洒落な百均ショップだ。食器だって調理道具だって美容・健康用品だって、女子大学を首席卒業なさった若奥さまだったら文句なく選ぶような、垢ぬけのした雑貨が並んでいる。きらびやかで店内照明も明るい。だが私の源ちゃんメモは、行きつけであるわが町のダイソーの品揃えを念頭に置いて記されてある。思い浮べていた商品には、なかなか出逢えなかった。
その代り、売場の隅っこにガーデニングコーナーがあって、ふと眼を惹かれた。私の鎌と剪定鋏はいずれも赤サビだらけの年代もので、買い替えたいといく度思ったか知れない。ホームセンターの所在地まで検索してみた。が、今買えば、道具たちは確実に私の死後まで残る。ようやく馴れて、使い勝手が好くなってきたころに、持主がいなくなるのだ。二の足を踏んて今にいたっている。
ところが、である。剪定鋏と手持ちのスコップがあった。さすがに鎌はないけれども。耐久性は問わない(というか問う資格が私にない)、使い捨てもいとわないとの条件にピッタリだ。購入した。〆て税込み二百二十円也である。

わが町へと戻る。勝手知ったるダイソーには、期待どおりの品が、いつもの場所にあった。煙草喫いに不可欠の使い捨てライター(三個組)、点火装置が故障したままのガスレンジに不可欠なマッチ(小箱六個組)、冊子類や厚紙ダンボールをまとめるだけでなく、あらゆるゴミ類の体積を減らそうとふん縛るに不可欠なビニールひも。〆て税込み三百三十円也である。
源ちゃんメモから三行を、ボールペンでグジャグジャと塗りつぶした。