一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

義務を履行する



 池袋まで用足しに出たかった。ご恩を受けたかたに、百貨店の地下から、夏菓子のひと口でもお贈りしたかった。おりしもその百貨店の十二階には、都議会議員選挙の期日前投票所が設置されてあるという。レストラン街フロアで期日前投票とは、初めての経験で、少々興味も湧いた。ついでに片づけてしまおうとの気分になった。
 しかしラジオからは、年寄りには危険な暑さだから、みだりに外出なんぞするなと脅かされた。できる限り後回しにせよと。もっともだ。猛暑もさることながら、人混みへ出てゆくのも気が重い。

 つまりは気が折れて、隣町にある区役所分庁事務所まで徒歩で出かけることにした。そこでの期日前投票は以前もしたから、経験としての新鮮味はない。
 妥協的決心をしたのは正午を回ったころだったが、午後二時まで待った。わずかなりとも陽が傾いてから、道の陽かげがわを歩いて行こうと考えたのである。
 銭湯へ通う途のさらに先へ倍ていどだから、およそ千五百から二千歩。時間にすれば十二分から十五分というところだ。駅まで六百五十歩歩いて、電車に乗って、あとは池袋駅の地下道伝いに百貨店へ行くのと、はて、いずれが省力かなんぞと考えながら歩いた。
 じつは比較するまでもない。途中で立ち停まったり、思い出したり、もの想いに耽ったりする場所がなんか所もあるから、今日行く途のほうが歩数も時間もかかるに決っている。それでも「身に危険な暑さ」を行く通行人なんぞは少なく、すれ違う人もほとんどないそぞろ歩きのほうが、はるかに気楽だ。

 分庁舎へ一歩踏み入ると、冷房が心地好い。しばらくここで休憩したいくらいだ。しかし女性職員さんが見張っておられた。
 「期日前投票ですか? こちらのエレベーターで二階へどうぞ。廊下の奥が投票所となっております」
 知っとるわいっ、という気も一瞬湧いたが、すぐに自分の身なりを自覚した。膝丈の半ズボンにティーシャツに粗末な帽子。素足に夏草履。安物のトートバッグを腕に通している。どう視たって案内を必要とする半ボケ老人だ。職員さんは精一杯の職業的ご親切を発揮してくださったにちがいない。
 エレベーターから降りると、待ってましたとばかりに「あちらでございます」、ものの二十メートルほども廊下を進むと次の女性が「こちらでございます」。いったいなん人の職員さんが動員されているのだろうか。
 いやはや、冷房を珍しがっている暇なんぞないのだった。

  
 門扉を押して入ったすぐの足もとの、シダやドクダミが密生するなかに、不吉な葉型を視つけてしまった。どうか違っていてくれ、似て非なるものであってくれと胸の裡で念じながらしゃがみ込んで確かめると、残念ながら葉の縁に沿って丈夫な棘が並んでいる。アメリオニアザミの新株だった。
 やれやれ、この猛暑下に作業なんぞさせるなよと、嘆かわしい気分だ。たいていの相手であれば、いやこれ以外の相手であればなんにせよ、次の作業日に対処するからそれまで黙認という対応となる。が、こいつだけは黙認できない。視つけしだい即刻対処しなければならない。
 かつて群棲した場所からはだいぶ離れている。私の手によってコロニーが崩壊に追込まれるにいたって、新天地を求めて飛来したものだろう。しばらく姿を眼にしなかったが、やはり全滅してはいなかったのだ。

 このクッソ暑いのに、と罵倒しながら、軍手をはめ、鎌と手持ちスコップを用意した。まず周囲の草類をむしる。たいした丈でもないから、まだいいだろうと眼こぼししてあった連中だ。
 周囲をさっぱりさせて、オニアザミに兄弟分や子分がいないかを確かめる。さいわいにして単騎で芽を吹いているようだ。粗雑にむしり千切って根を残そうものなら、また出てくるかもしれない。手持ちスコップを周囲から突っこんで、少なくとも茎の真下に続く主根だけでも丁寧に掘り起すことにした。小石を抱き込むようにして、あんがいしぶとい。十五センチほども伸びていたのを掘りあげた。

 片づけもそこそこに浴室へと直行。冷水シャワーにいつも以上の時間をかけたことは、申すまでもない。最低限の義務を履行した日だ。