
隣町の千早公園は、わが町の公園よりもはるかに広い。緑も多い。自然の高低差を利用して流水があり池がある。人手による汲みあげ流水ではない。水が湧いているのだ。
せっかく区役所の分庁事務所まで期日前投票に出向くのだ。かつて馴染だった道や施設が今はどうなっているものか、陽かげを縫いながら歩いてみた。
この一帯が旧「アトリエ村」と称ばれるようになったのはいつごろからか、私は知らない。どこをどう洒落たものか「池袋モンパルナス」なんぞと、だれが最初に称んでみせたのかも知らない。大正年間から昭和前半にかけて、多くの美術家連中が住んだ。また白樺派の千家元麿は転居の多かった人だが、出たり戻ったりこのあたりにいく度も住んだ。
農村を流れる川の畔に、安く住める場所があるというので、若く貧しく志ある芸術青年たちが次つぎに仲間を呼び集めたのだろう。集団生活のコロニーがあったわけではなくて、ここに一軒あそこに二軒と散在したものだろう。河川敷だったり、マウンドのごとき緩やかな起伏に富んでいたりで、詩情をそそる風景だったのかもしれない。
それらの面影はほとんど残っていない。ほんのわずかに、ご子孫が今もお住いのお宅があったり、あるいはこれがアトリエ風かと想像される、南からの陽を避け北に大きな窓を開いた不等辺三角形の屋根をもつ建物が、私道の奥にひっそり建っていたりするていどだ。
熊谷守一も長く住んだ。悪ガキの私は泥棒になったり警官になったり、追いつ追われつの鬼ごっこのさなかに、いく度熊谷邸の前を走り過ぎたか数えきれない。鬱蒼と生い繁る雑木と草ぐさとに遮られて、覗くことすらできぬその内では、世捨て人のごとき大画伯が蟻んこを観察しておられたなどとは、想像すらできなかった。
跡地は今、熊谷守一美術館となってある。まことに気持の好い小美術館だ。画伯ご令嬢にして山岳画家の熊谷榧(かや)さんが館長でいらっしゃったが、数年前に他界なさった。今日は寄らせてはいただかない。期日前投票を済ませるのだ。

粟島神社に詣る。少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀って鎌倉時代に創建との伝えが残る。大国主命(おおくにぬしのみこと)を補佐して国造りに尽力したとされる神だ。明治時代の神仏分離の後は、わが駅前の長崎神社の末社のひとつと位置づけられて今日にいたる。弁財天をお祀りしてある。
住宅街にひっそりと埋れたような神社でありながら、境内には池がある。亀が岩に登って甲羅干ししている。「亀や魚を捨てないでください」との立札が立っている。
ここ粟島神社が谷端川の水源とされる。近くを通る千川上水の分流がこの地の湧水と合流し、ここから谷端川となる。
保谷(西東京市)あたりを水源とする千川上水は、玉川上水とならんで江戸時代の重要用水路のひとつだった。今日の千川通りおよび西武池袋線に沿うかたちで東へと流れ、江古田でほぼ直角に北へと流れを変える。そして大山を通って中山道板橋へと抜ける。その分流がここから谷端川となったが、ちなみに谷端川は別名千川とも称ばれたそうだ。重ねてちなみに、練馬区立美術館の最寄り「中村橋」の駅名は、その地で千川上水に架かっていた橋の名である。
湧水口がどこでどうなっているのか、私は知らない。おそらく容易には観られないかたちにしてあるのだろう。あいだに中学校運動場と区役所分庁事務所とがあるために気づきにくいが、それらを斜めに突っきれば、粟島神社と千早公園の流水とはほんの百メートルほどの距離だ。
江古田から大山への千川上水とは正反対に、谷端川は北から南へと流れた。西武池袋線の線路下を通過したところで、東へと流れを変えた。数百メートル先で今度は北へと変えた。いろは坂のごとく極端に蛇行したのである。
今はすべてが暗渠だ。西池袋あたりでは遊歩道だが、わが町ではメインストリートの商店街である。拙宅敷地などもおそらくは戦後になってから、河川敷の傾斜地だったところへ盛土して宅地造成されたのだっただろう。
公園では子どもが二人、色鮮やかなプラスチックのバケツや如雨露で流水を汲み、灌木の根かたに注いでは、また汲んでいる。水色の象サンの鼻先から一瞬虹が立ち、消える。