一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

作業効率



 今月下旬に申しあげる、文学入門のお喋りのさいに、会場でお客さまに配布する資料がようやくできた。

 文章講座と銘打ってはあるが、法律を扱う日本語やビジネスの日本語、その他分野ごとの特色や慣習があろうなかで、文学の世界で考える日本語文章というものは、という点に焦点を絞って語るわけだから、つまりは文学入門である。
 資料といっても、要約でも粗筋でもなく、参考文献等の紹介でもない。おおよそこんな噺になろうかとの項目羅列であり、目次のごときものだ。しかも今のところこんなふうに考えているのだがという、目下の目安に過ぎない。当日はその場の気分で、どんな噺が口を衝いて出るものかは、予測の限りではない。

 お喋りのご依頼をいただいても、精密な台本を用意したことがない。たいていは当日のブッツケである。台本を用意したところで、どうせその軌道を外さずに喋る自信がない。だいいち台本どおりに喋るのであれば、台本を印刷してお配りすれば済むことだ。お客さまだって、そんなもん面白いはずがなかろう。脱線・即興・失言を含めてライブだと思ってきた。
 主催者さまからのご用命を私なりに噛砕いて、開始三週間前段階において思っているところを、予告目次として並べてみたに過ぎない。なんと三週間である。三週間もあれば、人間どう気が変らぬものでもない。内容保証なんぞできようはずもない。

 かような作業をもともとは得意とする男だった。九十分とか二時間とか尺を決めていただき、お客さまの年齢層や傾向を伺えば、私ごときに喋れる内容なんぞおおよそ見当がついてしまい、ツカミもサビも思い浮んでしまうのがふつうだった。
 ところが老化耄碌というものは、ふつうをふつうのままに維持できなくなるものである。頭のなかで進行を想定してみても、重複したり堂々巡りしたりで、すっきりとまとまってこない。いわゆるキマラナイのである。メモ用紙に箇条書きして、矢印を引いてあっちへ移動したり、こっちと統合したりと、ずいぶん不格好な目次にしてしまった。手直しを兼ねてパソコン入力してからも、移動したり分離したり統合したりを続けた。

 そんなもん飽くまでも目安に過ぎないのだから、当日はどうせ出たとこ勝負だろうにとは思う。けれども当日は当日で、解りきった項目を脱落させたり、さっきまで口にしていた固有名詞が出てこなかったりして、資料を覗く破目に陥りかねない。なんのことはない、お客さまへのサービス資料が、私自身のためのアンチョコとなり果てぬものでもない。
 いやはや、使いものにならなくなるとはこういうことか。ポンコツとはかようなものか。表紙を含めてわずか五ページに過ぎぬパンフレットの文案に、いったいいく日をかけたのだろうか。曲りなりにもコピーライターの端くれとして、DMレターや商品カタログの文案をひねくり出している時分であれば、わずか半日の作業量だ。
 落ちぶれれば落ちぶれるものである。さて、これを主催者さまにお届けするのだけれども。