一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

また一年


 堂々堂開店の前々日に新規仕入れの荷が入った。古書往来座ご店主ご指導のもと、古研中心メンバー手分けして、ほこり磨きを済ませ、手持ち在庫と合せて分類仕分け作業。箱詰めする。翌る開店前日は仕込み日。出庫搬入と店づくりだ。
 荷が出ていった倉庫。今回の出店では出番のない、ほんの一部の在庫と、会場で使わぬ雑貨や道具類が少々残るのみ。年に五日間だけの余裕空間だ。

 その昔、診療所の待合室だった。父が皮膚科と泌尿器科を開業していた。夏にはよく、赤ん坊の火が点いたような泣き声があがっていた。汗疹と飛び火、皮膚科医の書入れである。
 「お母さん、赤ちゃんを毎日石鹸水で綺麗に洗ってあげてはいませんか?」
 一人目の子を出産した母親は、ついつい清潔に神経を使い過ぎる。ところが赤ん坊は成人と違って、皮脂の分泌力が弱い。洗い落した皮脂を新たに分泌するのに時間が掛る。その間、まだ薄く弱い皮膚はコーティングされることなく、直接外気に晒され続ける。皮膚病となる。
 「そうでしょう。人間はね、少しくらい不潔なほうが、よく育つんですよ。毎日洗うならぬるま湯。石鹸水はせいぜい週一回にしてください」
 軟膏を調合しながら、父はさように保護者を諭すのを常とした。

 来院するのは決って、一人目の赤ん坊とその親だった。二人目の子からは親も心得て、清潔にし過ぎないようになる。というよりも、一人目に眼を配りながら二人目の面倒を看るのは重労働で、どうしても手抜きとなる。少しくらい泣き喚いたからといって、放っておいたところで死にゃあしないと、度胸も据わってくる。二人目の赤ん坊が汗疹・飛び火だといって、血相変えて飛び込んでくる母親は、まずない。
 思春期のころ私は、なんで親父はあんなこと教えちゃうのかなぁ、教えずにジャンジャカ来院させたほうが儲かるじゃねえか、と思ったものだった。

 この場所で父は半世紀以上、開業していた。ご近所に長年お住いのお宅で、ご本人かご家族のどなたも幼き日に来院なさったことのないお宅は、まずあるまい。
 まことに細ぼそながら、父は確実にお隣ご近所のお役に立ち、地域住民に奉仕できていた。私と違って。
 その頃の待合室、すなわち順番待ちの患者さんや親御さんがたが、世間噺や症状についての情報交換をなさる場だったところが、今は古本屋研究会の在庫と資材の倉庫である。

 営業三日間で、翌日はバラシと搬出。出庫搬入から五日目で荷が戻る。内容はそうとう入替っている。昨年在庫から売れていった本もあり、新規仕入れから売れ残った本もあるからだ。出庫搬入時よりも荷姿が小さくなっていることが嬉しい。サークル員学生諸君の頑張りの、眼に見えた成果である。
 そしてまた一年間、残った本たちはこゝに休む。たとえ今年は売れ残ったとしても、来年売れてゆく可能性はある。絶対にある。

 この場所は、道路拡幅計画地に指定されていて、遠くない将来、東京都から召上げられる運命にある。私の寿命が先か、土地建物の売却・取壊しが先か。それまでに古研の在庫・資材の倉庫を確保する途をいかに発見するか。
 社会経験豊富な、また世間知に長けたかたからご覧になれば、まさしく丼の中の嵐に似て、容易に判断が下せる些細な問題に過ぎなかろう。さっさと手を付けてしまったほうが楽だ、という問題に過ぎまい。
 が、世間知らずの私にとっては、余生に訪れた小さくない課題だ。それに私は、金勘定が極端に下手糞だった父が、いかにして一世一代の大借金をして、この地に移り住んだかを、子ども心に記憶している。