一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

二流



 池袋パルコの入口を飾るモニュメントとして、ガラス窓の内にスポーツシューズ・メイカーの巨大ポスターが掲げられてある。A 判半切ていどの縮小版がもしあるなら、一枚欲しい。

 中学一年の入部時こそ、近所の靴屋で買った運動靴を履いたが、すぐに先輩たちの真似をするようになり、日暮里にあった選手仕様の運動具店に出入りするようになった。以後高校二年で退部するまでの五年間、バッシュ(バスケットボールシューズ)は鬼塚タイガーと決めていた。いったいなん足を履きつぶしたのだったろうか。
 谷中銀座の入口手前の、夕焼けだんだんの脇にあった運動具店は、隣接した数軒とともに跡形もなく消え、今は更地となって再開発を待つ状態となっている。
 シューズにはこだわりがあった。が、中学生プレイヤーとしても高校生プレイヤーとしても二流だった。弱小チームのエースていどにはなれても、そこまでだった。他チームからマークされるほどの選手ではなかったし、地域予選を通過して東京都大会へ出て行こうものなら、だれからも知られぬ選手の一人に過ぎなかった。

 ジュンク堂書店を覗く。文芸雑誌の目次に眼を走らせてみるが、読みたい気も起きてこない。というより、知らない書き手の名ばかりがズラリと並んでいる。さすがに名前くらいは知っている書き手も少しはあるが、興味を持って読んで感心した相手でもなく、書評や作家論を書いた憶えのある相手もない。
 酒場などでご一緒して、どういう人かを承知している人もない。さような関係はせいぜい十歳か十五歳ていど齢下までであって、つまりは芥川賞選考委員クラスまでだ。それより下の、ただ今現在勝負作を文芸雑誌に投じている書き手に、知合いはない。
 私が照明の当る場に立たなかったことも一因だ。職業作家に知合いが少ない。知る人ぞ知る存在、なんぞとおだてられた時期もあったが、つまりはそこまでの二流人であり、無名人だった。

 思いがけぬことだったが、会社員だった期間に匹敵する年月を、文学教員としても過してしまった。むろん学問研究が期待される教授であるはずがなく、実践講師だ。半座敷から稽古場を観わたす親方ではなく、締込みを巻いて稽古土俵で若いモンに胸を出す係だった。黙って俺の後姿を観ておけ、なんて台詞はどこの国の芝居かと思って生きた。教育という大切な業務をあづかっていながら、自分は研究で飯を食っていると錯覚する御仁が無数に集うのが、大学という処だと身に沁みた。
 基礎を授けたうちでも将来有望な下級生には、世間へ出たら俺の弟子だったなんぞとは云うなと申しわたした。上級生になれば出逢うことになるだろう、著名教授や名声作家の弟子だったと名乗れと忠告した。世間とは、そうしたもんだ。


 タカセ珈琲サロンでの本日のおやつは、アイス珈琲と渋皮マロンデニッシュだ。商品価格には、原価に占める手間や設備の割合こそが重要だとは百も承知だが、それでもタカセ商品のなかでは材料費の高価なパンだと、いつも感じる。大好物だ。

 ここなん日か、エアコン涼を求めて昼陽なかをさすらう暮しが続いている。行く先のレパートリーが多くないから、数日周期で同じ店を巡回している恰好だ。
 珍しく、八ポ二段組でギッシリ六百ページ以上ある本を、読み直さねばならぬ仕事が舞込んだ。読書速度が著しく低下した身には、楽な仕事ではない。だったら経験値を悪用して要領よく手抜きすればよろしいようなものだが、読み始めてみると呆れるほど以前の記憶が欠落している。また新発見も多い。ついつい〆切意識が薄れて、読み沈んでしまう。辞書を引いたり、シャープペンシルで細かい字を書込んだりしながら、老眼鏡をかけたり外したりして大部の本にかじりつく老人を、人さまはさぞや痛いたしく哀れに、あるいは滑稽に思うことだろう。
 耄碌してなお、かような押しつけ仕事が回ってくるのも、私がどんな仕事でも引受ける二流だからだ。ありがたい。……と思わねばならない。