
上には上が、とは云われるけれども、いったいどこが頂点なんだか。
わが気に入りのアップルパイについては、いく度か書いた。リンゴを四分か六分かにカットして、さらに上下に二分したていどの塊が、ごろんごろんと詰っている。いったいどうやって均等に熱を通し、どうやって焼いたのだろうか。当のお店からは無許可だが、私は勝手ファンクラブのようなもんだ。
そんな日記をお眼にされたかたから、それじゃあコレはどうだと、驚くべきお土産を頂戴してしまった。リンゴを丸ごと一個使ったアップルパイである。加工手順は判らぬけれども、柄の部分からドリルで穴をあけて芯と種子とを抜き出して、そこへクリームを詰めてある。そして全体をパイ生地で包んで焼いたものだ。
青森県弘前市の製造元による商品だという。なるほどリンゴの本場だけあって、やることが豪気だ。上には上があるもんだと、まずは度肝を抜かれた。
弘前の地には、好い想い出ばかりがある。五所川原で津軽鉄道に乗換えて金木まで、太宰治の生家斜陽館へはもちろん行った。冬はストーブ列車になるのだとの車輛で、ここにストーブが置かれるという場所も観た。途中駅で長い停車時間があって、いったん下車したホームの先端から、岩木富士の雄姿を思う存分に眺めた。秋晴れの天候にも恵まれ、静かでのどかな農村風景を前景として、およそ四十年後の今でも記憶が蘇るほどの絶景だった。
弘前城へも短時間ながら足を向けた。紅葉には少し早かったが、名物の桜と紅葉だったら写真も動画も世間にはいくらでもある。中央弘前駅には JR 弘前駅とは異なる空気が漂っていて、なんということもない風景なのに離れがたかった。東北地方で最初という教会にも眺め入った。むろんリンゴ畑は、車窓からどれだけ眺めたか知れない。
とある学会の全国大会が弘前大学を会場に催された年があって、泡沫出入り業者の一人として商売と宣伝と顔見せに出張したのだったが、会社には学会期間の前後に休暇をつなげて、気ままな単独観光に歩いたのだった。また来ようなんぞと気軽に思ったもんだったが、以後一度も赴く機会はなかった。あのとき会社にわがままを通して休暇を取っておいて、ほんとうに好かった。

独居老人にとって一番の気がかりは、死後の後始末をいかに済ませておくかということだ。遺産なんぞ残る気遣いはないが、借金も残したくない。どなかたのお手を煩わせることは避けられまいが、最小限のご迷惑で済ませたい。そのためには、なにをどうしておくのが最善なのか。ある意味では、人生最後の大仕事である。
と、さも訳知りふうに申したところで、しょせんは無知の浅知恵。先読み力など、私にあるはずもない。
散歩の道筋に空家がある。引越されたものか、最後に残った住人が逝かれたものか、事情は存じあげない。無住の家屋となって、もう一年にもなる。
主なき家の庭木に、果樹が色鮮やかな実を着けている。葉群に隠れているが、かなりたわわになっている。今朝は気温が低く、風もあって、肌にはたいそう冷たい。だが陽射しはうららかで明るい。柑橘果実は陽に輝いている。立派なものだ。堂々たるものだ。
主はどういうかただったのだろうか。この果樹に、毎年たわわになる果実たちに、どういう想いを抱いておられたのだろうか。そして事情はどうあれ、樹木など眼中にないかのように、ここを空家となさった。それに比べたら、私なんぞは……。
人生の頂上とはなんだろうか。いかなる様相をくだり斜面というのだろうか。なにをもって最期と称ぶのだろうか。あっぱれ見事に陽光を撥ねかえす果実の色に、上には上がいるもんだと、なんとなく考えた。