
枯葉を降らせる樹木は、拙宅では花梨一本となった。どうやら降り終った。
おそらくはこれが最後の落葉掃きとなる。まずは今季最後の、という意味だが、ほかの意味もある。近ぢか、枝を大幅に剪定して、樹の背丈を思い切って伐り縮めようと考えている。その程度であれば、植木職の親方に依頼するのはかえってご迷惑だ。自分でやる。劣化顕著の老人が梯子乗りもいかがかとは思うが、安全性の高い脚立を所有しているので、なんとかなるだろう。幸いにして花梨は、樹形の作法について、いたって寛容な樹種だ。
またこの場所は、東京都による道路拡幅のための用地に指定されてある。日程については、まだなんの相談も始めてはいないが、遅かれ早かれ東京都に買い取られてしまう運命にある。家も解体しなければならない。いざ着手となったあかつきには、菩提寺さんにお願いして、ささやかな家供養・桜供養・花梨供養なりともしたいものと、ひそかに願っていたのだったが、主役のひとりたる桜樹が、姿を消してしまった。供養会の意欲も薄れかけてしまっている。
いずれにせよ一年後には、同じ状態で同じ気分で、花梨の落葉掃きをすることはあるまい。

さて今朝は落葉掃きと気分が定まれば、あとはつねの一時間作業だ。今日の穴位置を物色する。君子蘭東と彼岸花第一地帯の間と決めた。
まずは粗っぽく草むしりだ。そして穴を掘る。いく度にもわたって、枯葉や枯枝や乾燥生ゴミ類を埋め戻してきた場所だから、土質は悪くない。スコップの先端はいとも容易に、土に食い入ってゆく。瓦礫も少ない。植物の根っこは多いけれども。一辺およそ四十センチ、深さニ十センチの穴は、アッという間に掘れてしまった。まだ土に還りきらぬ木片がいくつも出てきた。手にとってみると、いずれにも視憶えがある。土にまみれて黒ぐろとして、脆くなっている。
より深堀しようとすると、ある深さから急に、小石や素焼鉢のかけらがスコップの先に当るようになる。昨年ここまでしか掘らなかったのだろう。取出して門扉裏の瓦礫山へと放る。

箒と塵取りの出番だ。枯葉量はめっきり減ったから、往来やお向うさまのご門前にまで迷惑をおかけしていることは、幸いになさそうだ。拙宅敷地内の吹溜り二か所のみが問題のようだ。駐輪スペースの北西角は、あい変らず落葉の大集合場所のようだ。風による空気の流れの為せる技だろうが、不思議なもんである。
長年視慣れてくると、この隅がさっぱりするだけで、あっちもこっちも掃除が行届いてきれいになったかのような気分に襲われるようになった。他は全然片づいてないというのに、錯覚とは奇妙なもんだ。

塵取りを手になん往復かして、落葉類をすべて穴に収める。こんもり盛りあがるから、両手を突っこんで揉み砕いてやると、半量以下になる。掘りあげ土を少々混ぜこんで、スコップの先でよく突っついてやる。微生物が少しでも早く粉砕枯葉に到達するようにだ。ここでいったん如雨露に半分ほどの水を差す。
このまま埋めると、瓦礫やら草の根っこやらを除去したぶんだけ、跡が窪地になってしまうから、なにかを埋め足さねばならない。枯草山から持ってくるのがつねだが、今日は神棚から下げた去年の注連縄をほどき、剪定鋏でザクザクと切って、たっぷり振りかけた。藁類は、ことのほか微生物をたくさん呼んでくれて、分解を促進してくれる。先日江古田の百均店で購入した、新品の剪定鋏を試してみたい気もあった。
掘りあげ土をすべてかけて、埋め戻し終了だ。麦踏みよろしく、踵を利かせてよく踏んづけておく。まだ少し盛りあがった状態だが、分解が進むにつれて平らになるだろう。如雨露に今度は一杯の水をかけて、おそらくは最後の花梨の枯葉埋め戻しを了えた。