
残り物の皿を舐めまわすように、仕舞いの一滴までをも読み取ったとはとうてい思えぬままに、別れなければならぬ小説ばかりだ。
細部までをも検討する機会など、もはや訪れることもあるまい。実例用例を地道に積み重ねて立証せねばならぬ機会も、ありえまい。かつて深刻な興味を抱いて読んだ作家だとて、選りすぐりの代表作のみを寄せた選集を一冊残せば十分だ。私らの世代で申せば、クリーム色の箱入り「新潮日本文学」があれば、また文庫化された代表作があれば、事足りる。
単行本類にたいしては、造本やら装丁やらに懐かしき思い出もあるが、店仕舞いが優先だ。安岡章太郎を、庄野潤三を、小島信夫を、それに出し残してあった島尾敏雄を、古書肆に出す。卒業単位にははるかに届かぬままに、力尽きて中退してゆく気分である。
金子昌夫『山川方夫論』ほかを付ける。
どこに分類してなにと並べるべきかを考えあぐね、それとなく積んであったバラ本の一部分を出す。
小島政二郎による芥川龍之介の面影回想『眼中の人』。晩年にひと花咲かせた和田芳恵『愛の歪み』。檀一雄『火宅の人』も最晩年の乾坤一擲。映画化もされた。
映画として当りをとったのは森村誠一『人間の証明』だ。「母さん、僕のあの麦わら帽子、どうしたでしょうね」西條八十の詩を通奏低音に敷いた、哀切な物語だった。
テレビドラマとして上出来だったのは、藤沢周平『三屋清左衛門殘日録』だ。藩主の側用人という要職から退いた隠居の身ながら、卓越した人柄と比類ない人脈とから、ついつい藩政のごたごたに巻込まれてしまう主人公を、仲代達矢が好演した。親友にして現役要人の財津一郎も、馴染料理屋の女将役かたせ梨乃も好かったが、なんといっても跡取りの嫁役の南果歩が出色だった。妻と死に別れた舅に程好い距離で仕えながら、じつはちゃっかり舅を操縦しているような嫁で、南果歩という女優の凄味が存分に発揮されたドラマだった。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』は、名だたる文人・学者らが仕事場や隠れ家とした名物ホテルにまつわるノンフィクション。というより「文壇資料」と書名に銘打たれてあるように、あからさまな記録そのものである。
女性著者のものとしては、上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』があった。「哲学」の語源は学問分野なんぞではなく、「知を愛する」という動詞であるのは知られた事実。したがって「哲学する」という動詞は由緒正しく、学問分野として名詞化した「哲学」のほうがむしろ怪しい。それに倣ったつもりだろうが、なんともどうにもという書名だ。これが編集部(または営業部)意向によるものであって、上野千鶴子さんの発案によるものでないことを、切に祈る。
インドネシア文学の父、プラムディヤ・アナンタ・トゥール『日本軍に棄てられた少女たち』が、なぜかここにあった。インドネシア作家たちの作品の大半は、だいぶ以前に古書肆へ移した。プラムディヤ作品もすべて出したつもりでいた。が、一冊が漏れて、こんな処に挟まってあった。わが整理能力の乏しさ以外のなにものでもない。ある日ふと気紛れに、上野千鶴子と並べておく気にでもなったのだろうか。記憶にない。
どれもこれも、なにがしかのまとまった考えをなそうと発心しながら、なんの思索を結ぶにも至らず、断念されたままとなっていった残骸たちだ。これまた中退の痕跡である。いずれも古書肆に出す。